きのうは、
一年ぶりの
天鏡閣コンサートだった。

無事に、二部公演を
務めたが、午前の部で
いざ始めようという時に、
レコーダーの電池が不足していて
「エラー」表示が出て、
ちょっとパニクッてしまい、
出だしで演奏もミスをした。

家を出るときに
ちゃんと電池フルの状態を
チェックしたのに、
どうした機械のトラブルか
まったく理解できなかった。

午後は予備の電池に取り替えて
無事に録音ができた。



何十回もコンサートを
経験しているので、
アガるということは
ほとんどないのだが、
想定外の不測の事態が生じると
それで気が乱れてしまって
演奏にも支障を来たし、
気分もアガッてしまうということを
今回、経験できた。

二重奏は暗譜でのぞむ独奏とは違い
相手の音を聞きながら、
なおかつ楽譜を見失わないように
という神経を使うので、
午前・午後の1.5時間の
2ステージをこなすと
かなり神経疲労がするものである。

でも、それは
ストレスによる疲労ではなく
心地よい創造の疲労である。



午前、午後とも
とてもハートウォーミングな
お客様に恵まれて
心地よく演奏できた。

会場のアンビエンスというのは
MCに対する笑いの反応や
一人ひとりの表情、
そして拍手の感じで
たちどころに奏者には
把握できるものである。

これは、研修の講師としても
感ずるもので、
よき聴衆に恵まれると
こちらの話も乗ってくるという
現象はしばしば起こるものである。

過去3回の復興支援リサイタルでも
聴衆に恵まれ、毎回、
ほんとうに気持ちよく演奏させて
頂いている。

ある知人は、アンケートに
「佐々木さんが、
聴衆に愛されている雰囲気が
よく伝わってきました」
という感想を記して下さり
嬉しく思ったことがある。

何を弾くかも大事だが、
誰が弾くかということも
それ以上に大切なので、
その誰かたるに値するよう
己れを練磨にしなくてはならないと
つねづね心がけている。

芸能の世界では、
最期は「人(にん)」がものをいう、
と言う。

やはり、キャラが立つ、
ということが大事なのだ。

講演・口演・説教も同じで、
何を言うかよりも
誰が言うかが大事なのである。

面白くない人間、味のない人、
あんたに言われたくない
という相手の話なぞ
誰が聴くものか、
なのである。

思えば、
これまで上司だ、年配者だ、
先生だ…と、辛抱しながら
ツマラン話をずいぶん聴かされて、
大切な命の時間を
空費してきたことが恨めしくもあり、
相手と自分の愚かさ加減に
ようやく見切りをつけられる
熟年に達した。




サロンコンサートへの
お招きを頂き、
旧宮家の別邸という
高貴な空間で、
信頼・リスペクトする音楽家の
W先生と練習をくり返し、
多くの方々の心に
音楽の美と真実を送り届け、
悦び、ご満足頂くというのは、
ほんとうに幸せな生き方と
ありがたく思った。

終演後、幾人かの方々から
感激しましたとの感想や
感謝のお言葉を頂き、
その上、主催者から
報酬まで頂けるのだから
こんな幸せなことはない。

音楽を愛しながらも、
自らは楽器を奏でることが
出来ない人々の眼には、
演奏家は「ヒーロー/ヒロイン」の如く
映るのやもしれない、
と昨日は感ずるような
聴衆の反応であった。

もっとも、
コスチュームも非日常的な
ドレスであったり、
仕事では切れないような
鮮やか過ぎる色合いのジャケットに
蝶ネクタイという
芸人ファッションであった。

帰宅後、
録音した
ラベルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』は
一箇所だけミスったものの、
見事な演奏で完成度が高かった。

エコーをかけて
聴いてみたら、
これは売れるなと
ディレクター商魂が
ムクムクと湧き上がるほどだった(笑)。

W先生の『さくら』も見事なものだった。