きのうは
新学期の初出勤日だった。

通勤途中、
山沿いの道端に
ふと目をやったら、
しっかりと
一輪のフキノトウを
発見してしまった。

どんだけ
フキノトウ・センサーが
鋭いね~んッ!
と我ながら
可笑しくなった。



それからというもの、
学校に着くまで
延々と道端をサーチして、
数ヶ所に自生地を見つけた。

今日から
三日もオフ日なので、
郊外にフキノトウ探しに
いこうかしらん、
と思うほどである。

首の痛みも大分と癒えてきたが
まだ完治とはいえず、
背中のオデキもグジュグジュいってる。

そして
先週から全身痒みの
アレルギーっぽく
悩ましい。

総じて、体調わるし、
という、いつもの春先の
不調感が拭えない。

還暦という
「死と再生」の節目でもあるので、
子宮内という安住の地を去ることや
産道を出る苦しみというのを
必然的に体験しているのかもしれない、
とふと思った。

神様が体毒と心毒を
いっぺんにお取りさばきされると
命に関わるというので、
少ぅしずつ、ローン払いのように
痛みは痒みに奉りかえて頂いて、
悪い箇所はオデキに集中させ、
首の凝りカタマリ痛をも徐々に
ほぐして下さるのかもしれない、
と思い替えしたら、
「神慮は深遠にして人の想いぞ及ばざる」
というみ教えに合点がいった。

人生最後の
「生まれ変わり」期ゆえの、
それゆえの仕事半減なのかもしれない、
と思えば、ありがたく
この時期をやり過ごさせて頂こう
という気もした。

フキノトウ採りに心踊らせ、
文学を味わい、
音楽を楽しみ、
臨床心理学の勉強もし、
生徒・父兄・教員のカウンセリングをして、
ギターのレッスンをしているだけでも、
十分に生きているのかもしれない。

その上、
復興支援という大義のために
音楽堂大ホールでリサイタルをやる。

なんだか、
無為に生きている気がするのは、
やはり「うつ前性格」の
ペシミズム(悲観主義)や
貧困妄想のせいなのか、
老化による気弱なのか、
信仰が薄くなってきたせいなのか、
時折、負けそうになる自分がある。

子どもたちが幼い頃は
楽しさと育て甲斐で
目に見える張りがあったが、
二人が独立して、老母はホームが
終の棲家となって、
夫婦二人っきりが残され、
人生のフェーズ(局面)が変わって
面喰らっている状態なのだろう。

インド哲学の四住期でいえば、
家長期から「林住期」への
移行期なのかもしれない。

もっとも、
暇がふえた分、
勉強時間もふえたので、
「学生期」的な心境になることもある。




勤務校のさくらが満開で、
見事なものだった。

新入生たちの姿も
ちらほら見え、
さくらと同じように
今を盛りと誇らしく咲いているような
生気が感じられた。

校長・養護・SSWが
それぞれ新任になったので
挨拶を交わし、さっそく、
テーブルを囲んでの
生徒指導部会となった。

「ヘベ」を発症して
緊急入院した子が出て、
来週から父兄への
心理教育対応が必要となった。




この春、無事、高校生になった
Hちゃんの置き土産の美術作品を
カウンセリング室に飾った。

担任共々心配していた
教頭先生も
その作品の出来栄えに
感心されていた。

事務室から
4色のファイルを頂いて、
新年度の日程表・記録簿・
部会簿・教員指導記録簿とした。