1960年代後半の日本において、フォークあるいはロックに岡林信康、萩原健一、カルメンマキ、フォーククルセダーズ、ソルティシュガーらが登場した。フォークソングが発表されると、ちょいちょい発売禁止になっていた。また、映画・演劇・アートでは若松孝二、寺山修司、大島渚、横尾忠則、女優の緑魔子、横山リエらが活躍していた。当時は新宿の風月堂が文化発信基地となり、ヒッピーの他に、新宿周辺のフーテン族も現れた。ただし、自らフーテンであったと自称する作家の中島らも氏は「ヒッピーとフーテンは違う」と述べている。思想を持ち、そのためのツールとしての薬物使用を是とするヒッピーに対し「フーテンは思想がないんよ。ラリってるだけやん」と自己評価し、ヒッピー・ムーブメントが生んだ文化のみを摂取してスローガンを持たなかった日本のフーテンと、ヒッピーとを同義化する風潮を批判すると同時に「自由ほど不自由なものはないんだよ」と述べた。

 他にルンプロと言う呼称もあった。ルンペンプロレタリアート( Lumpenproletariat)とは、カール・マルクスが使用した用語で、プロレタリアート(労働者階級)のうち階級意識を持たず、そのため社会的に有用な生産をせず、階級闘争の役に立たず、更には無階級社会実現の障害となると見られた層を指す呼称であった。ルンペンプロレタリアートの用語は、襤褸、浮浪者、悪漢」などを意味する「ルンペン」(lumpen)と、労働者階級を意味する「プロレタリアート」(proletariat)より作られた。最初にルンペンプロレタリアートを「最下層の腐敗物」と位置付けた頃のマルクスは、ルンペンプロレタリアートのイメージとしてジプシーを想定していたようである。

 ルンペンプロレタリアートを革命の基盤として評価したのが、ミハイル・バクーニンであるらしい。バクーニンは、ルンペンプロレタリアートは貧困に苦しむ下層の人々であるが故に「ブルジョワ文明による汚染をほとんど受けておらず」、だからこそ「社会革命の火蓋を切り、勝利へと導く」存在であると捉えた。わが国の新左翼においても、世界革命浪人(ゲバリスタ)を名乗る竹中労、平岡正明、太田竜らは、窮民革命論など、ルンペンプロレタリアートと連携する思想や動きも示された。例えば、革命的労働者協会(解放派)の拠点労組には山谷などのドヤ街が含まれていた。私も学生時代、新左翼の友人がルンプロについて話しているのを聞いた。連帯をするというようなことを言って、太田竜がね、などと聞いたが、私は無理ではなかろうかと思った。彼らはそのような気分を平生持ち合わせていなかった。狭い見分でしかなかったが。平生接するルンプロはフーテンなどとほぼ変わらない肌感覚であったように思う。彼らは、他所から流れてきたフーテンを自任する女性と良く同棲していた。

1970年代、アメリカの反戦運動に端を発した“ヒッピーカルチャー”のわが国における拠点がひところ国分寺だったらしい。70年代から80年代にかけてヒッピーの聖地とも言われていた。ヒッピーカルチャーといえば、云わずと知れたサブカルチャーの原点のような存在である。既存の価値観に背を向け、自由を求めた日本のヒッピーたちは、何故かひところ国分寺を目指したのだそうだ。たぶん、そうさせる“空気”が往時の国分寺にはあったのかもしれない。そう“国分寺”はまさに日本の“オレンジカウンティ”(アメリカのヒッピーたちが全米から押し寄せた聖地)だったというわけだ。

国分寺は、いっときアンティークショップが集まる個性的な街だった。特に南町から折れた国分寺街道沿いにそういった店が並んでいた。その名残があるためか、はたまた坂が多いことで物理的にゆったりと動き回るほかは無いという物理的な障害があるためかは定かではないが、現在の国分寺も自然派でスローな生活を好む人が多い傾向にある街らしい。今でも、多摩欄坂に、ほのかにその匂いが残っている。

今でも「カフェ・スロー」と言う店が国分寺街道に面してある。その向かいに古書店のブックスイトウ(ここも、2023年春に廃業した。) があって、国分寺街道沿いのアンティーク街の名残をある意味示している。カフェは革新系の拠点になっていて、立憲民主の議員なども時々立ち寄る。オーガニックの食事を提供している。ただ、この場所は昔ボルダリングのジムがったところで、恐らくわが国で最初のボルダリングの場所だった。私には、ボルダリングの聖地として貴重に思える。今ではそのジムはなくなり、カフェになっている次第である。

まどそら堂の小林氏が、春と秋の一定期間だけ開放される武蔵国分寺公園で行っているイベントに「古本釣り堀」がある。「古本釣り堀」とは、魚のイラストが描かれた厚紙の袋に古本を入れて、磁石をつけた釣竿で釣る手作りのゲームである。1回200円で三尾まで釣りをすることができる「古本釣り堀」。釣った魚の中に隠された古本は、1つだけ選んで持って帰ることができる。魚のイラストはもちろん小林さんが描いたものであるそうだ。

「まどそら堂」で、私も良く古書を買った。店の前に並べてある、廉価本をいつも買った。

1975年創業の「ほんやら洞」を、1977年に前オーナーから引き継いだ店主の中山ラビ氏は当時を知る証人であった。彼女は1972年にフォークブームの最中デビューしたシンガー・ソングライターだった。当時は女ボブ・ディランと呼ばれていた。開業当初は、自分らしく生きることを探しているようなヒッピーやフーテンと呼ばれる客が多くやってきた。私もカレーライスを食べにときどき立ち寄った。カレーが美味だった。店で句会などもしていたように思う。俳句を作らないかと誘われたことがあった。先般ラビ氏は亡くなり、その後息子さんが継いでいるとの噂であるが、ほんやら洞は今でも個性の立った店として営業を続けている。

東京の国分寺では、往時ほら貝という日本初のロック喫茶を拠点として、コミューンが形成された。1968年にオープンしたほら貝は、有機栽培の素材を使った自然食料理を提供していた。現在ではオーガニックという言葉で当たり前のものになっているが、当時は先駆的すぎて、一般の人はその真意をほとんど理解できなかったという。ほら貝には、新左翼の運動家も多く立ち寄っていた。そもため、公安の刑事がよく見張っていたと言われている。私も大学生のころ先輩と立ち寄ったことがあった。店内は混んでいた。ようやく席を確保して、座り込んで店員を待った。髪を伸ばし髭を生やした店員がオーダーを取りに来た。今思えば店主だったかもしれない。「コーヒー」と注文した。「ビールですか」と店員。「いや。コーヒーをね」とわれわれ。何度か繰り返したが、要は「ビール」しかない様だった。しかたなくビールにした。

そんな日本のヒッピーはみずからを〝部族〞と呼び、国分寺コミューンは「エメラルド色のそよ風族」を名乗った。1968年には、国分寺のエメラルド色のそよ風族が警察からの家宅捜査を受け、大麻取締法違反で5名が逮捕された。これが、日本初の大麻摘発事件である。駅前を独特の風体をした若い男女がゆったりと徘徊していたが、いつの間にか姿を見ることもなくなった。考えてみるとこの大麻事件のせいかもしれない。通勤通学のわれわれと歩くスピードが違った。彼らの脇を通り過ぎると、仄かに香の香りがした。