日曜日に7回忌をした。墓でお経をあげてもらった。雪が降って寒い日だった。思い出すと葬式も雨だった。親父は雨男らしい。

父とはそりが合わなかった。ずっと反抗していたように思う。早稲田に入ったが、そこを辞めて、札幌で学生生活を送った。父親と一緒に居たくなかったのかもしれない。父親は静岡の名主で村長の子供だった。8人兄弟の末っ子で、祖父が亡くなった時、医科大学に行く資金を祖父は遺してくれたのだが、長男の伯父が相続すると、それを取ってしまった。父親はそれを生涯怨んでいた。父親は結局秋田鉱山専門学校に行き、重工業会社に工員として入った。彼は、そこで現場から技師になり、子会社の製鉄会社に転じてホワイトカラーにまで這い上がった。その後、黎明期の公害担当として、結構活躍したが不幸病に倒れ、出世は頓挫した。思い返してみると、頑張った男だったのだろう。だが、どちらかと言うと小市民的で、それでいて煙たい存在で、苦手だった。小さい頃は、それでも遊んでもらったりしたのだが。会社の社宅は八幡山にあったが、その頃は父親の顔を見たことがなかった。私が起きる頃は、もう会社に出かけていた。帰宅は私が寝てからだった。たまさか、休みを取る時は、朝私が起きると煙草の匂いがした。そうすると、私は遊んでもらえるかもと思い、わくわくした。しかしながら、父親はたいてい疲れ切っており、寝てばかりいてさほど遊んでくれることもなかった。それでも、時々キャッチボールをしてくれたことを覚えている。

今でも悔しい思いがある。最後に、心筋梗塞で施設から病院に行くように求められたとき、なぜあの病院にしたのだろうということである。父親はそれなりに元気で食欲もあったのに、突然急変して意識不明となった。何も話しをしなかったことが悔やまれる。

最近になって、しきりにもっと話しをしておけば良かったと思うのである。