ついに生まれました。わたし・・・(゚◇゚ )ノ
私クラスを生むことは、人間にとって本当に危険でしたでしょう?
その通り、母は危険な状態だったのです。
健康体そのものの、町で有名な美人だった母は、精神的にも肉体的にもボロボロになってしまいました。
産婆さんに取り上げてもらったのですが、その産婆さんは叙勲を受けているほどの方で、超経験豊富だったため、母の命はとりあえず助かりました。
もし、産院で出産していた場合 Dr.が凄腕でない場合 確実に母は・・・・・と思います。
(産院が悪いのではなくて、私を取り上げてくれた産婆さんが、たまたまスーパーだったのです。)
さて、その後母は身体が病弱になり、心臓弁膜症を患い成功率がとても低い心臓手術をうけなければ
なりませんでした。若かった女性の乳房を切り取り、肋骨を片側ほとんど切り取り、すごい傷跡が残った母は、その後精神を病み、家庭生活ができなくなりました。とくに左足 左手はほとんど動かせなくなり、
30歳そこそこの女性は、どんなに苦しかったでしょうか?
自転車の後ろに私を乗せどんな遠くへも元気に走り回っていた元気者の母は、消えました。
自営業だった父の手伝いもできなくなり、部屋のすみで毎日暗い壁を見つめることしかできない母になりました。
このブログを書いていて 思い出しますと、もう涙が止まりません。
母の実家はメロン農家で、古いしきたりの家でしたので、家の役に立たない嫁は・・・ということでわけのわからない母を連れていきました。
その後 何度も父と、連れ戻しにいったことを思い出します。
結局8歳くらいから母親の愛情なしで育ってしまったのです。
あ! まずい 話が8才まで行ってしまった。
0歳に戻しましょう!
私、今だから正直に言いますが、世が世なら皆さん手をあわせて拝んでくださる魂を持って生まれてきました。
ですが、中々それを表にだすのをためらっていました。
そんな魂の私ですから、生まれて1週間後くらいからの記憶はバッチリです。
おしめを代えてくれるのはおじいちゃんもおばあちゃんも上手でしたねえ。サンキュー!
特に、おばあちゃんのおしめを代えてからの足の体操が大好きでした。イチニ イチニと言いながら
気持ちよかったなあ~~。
「おばあちゃん、やめないで もっとやってよ。」といつも言いたかったのですが、生まれたばかりでそんなこと言うのはおかしいのでやめました。(;^_^Aーーーーー
しばらくして目が見えるようになり、そのときの記憶が1番はっきりしてます。
見るものなんだこれ状態!早く地上に慣れなくては! でした。
昔 私のうちは薄板(今でいう経木)の製造会社を経営してまして、昔は肉でも魚でも薄板で包んでましたね。現在では石油加工品に取って替わられましたが・・・・
親戚中がひとつの家に住んで大きな材木から薄い板を削りだす仕事してました。
その 機械の動き 削りたての板のなんともいわれない香りは赤ちゃんのときから今でも懐かしく覚えています。
私の0歳1歳くらいまでの仕事なので物心ついてからの記憶ではないです。
また居間にあった掘りごたつ 棚にあったたくさんのダルマ 後に祖父母に聞いたら、私の記憶通りでした。
長男の父 長女の母から生まれた私は親戚中で1番最初の子供でしたので、かわいがられましたね。
母があんな調子だったので父のすぐ下のおばさんからおっぱいもらってました。
その節は有難うございました!(*^.^*)
その、あばさんに後でまた大変お世話になるのですが、後の話で・・・・・・・・
さて将来 神童と呼ばれる私の幼年期はどんなだったのでしょう?
あれ!!! 今これ書いていて初めて気付きました。
神童て呼ばれていたけど、本当そのものだったじゃん!!!(゚_゚i)
さて 「神童は二十歳すぎればただの人」 と世間でいわれてますが、どうなのでしょう?
みなさんの期待通りに育っていくのか、はたまた即 凡人になってしまったのか?
あ~自分で楽しみ!
(でも 一切作り話なしですよ。ドキュメンタリー)
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