その講義は三十数年前のきょう行われた。

Ⅸ号館311番教室。
数少ない階段教室のひとつで中規模、定員百二十名。
芸大から出講されていたX教授の本年最後の講義だった。
毎週月曜日四五時限のふた駒の講座ををうちの私大に持っておられた。
ボーイは二年生のときから聴講していたので三年目。16単位となる。

X教授の講義は小面倒だが聴いていて現実を忘れさせて下さるような
不思議に魅力のあるものだった。殆どの学生はそれを理解できず
聴講生は毎回5-10人ほどに過ぎない。
試験になると百人ほど現れるのだが。

哲学美学宗教学音楽学などが渾然一体となったような内容で、ご自分が
最近読まれた本の感想を中心に話を進めて行くという独特のものだった。
東大時代の輩下に今は大家になっている皆川達夫や服部幸三らがおられる。
共通科目でどの学部の学生も聴講でき、決められた範囲で卒業単位に認定される。

アマーリエはいつもと同じように五時限(17:30)にいつもの笑顔で現れた。
先週なにごともなかったように隣に座る。
春先に、一緒にX教授の講義を取ろうよと提案したのに応えてくれたのだ。

その日は最後の講義でふだんより4-5倍の学生が来ていた。みな翌週の
試験が気になっていたのだろう。

講義は淡々と進んだが、だれも理解していないようだった。きょう初めて
出てくる学生たちだからやむない。

先週一月半ば、アマーリエは講義終了後(19:05)突然、ボーイさん、お話が
あります。すこし時間いいですかと聞く。是非もない。アマーリエとは連休(GW)前
からのクラス公認の恋人同士だったのだから。
アマ-リエとしてはやや切口上で、珍しく思いつめているような気がした。

翌火曜日の二時限(11:00)演習ⅡB(独作文)のレポートが気になって早目に
帰りたかったんだが。最低3枚は書かねばならない。おまけにこっちも最後だ。
困ったな!

駅近のルノアール。
腹ペコなのでサンドイッチ二人前。

いとしのアマーリエは注文が来るとこんな事を途切れ途切れに語った。
途中で涙声になりハンカチで目口を押さえ嗚咽して最後まで聴き取るのは
容易ではなかった。長い睫毛が濡れた。
生まれてはじめて女性の涙をまじかで見た。

ぼーいさんきょうまでいろいろありがとうございましただいがくせいかつさいごのとしに
あなたのようなせいじつなかたとおつきあいできほんとうにしあわせでしたあなたといった
はいきんぐこんさあとえいがまたいっしょにおさけやおしょくじにごいっしょしたこと
みんなわすれることができませんとってもたのしくしあわせでしたありがとうわたしの
しょうがいであなたほどわたしにやさしくきをつかってくださったおとこのかたはいません
でしたあなたがあのひこえをかけてくださったときわたしもとてもうれしくてみんなから
からかわれたりはしたけどすとれーとなひょうげんだったのでかえってみんなにほこれる
かんじでしたなつやすみまえまであなたはしゅうしょくかつどうでいそがしくじゅぎょうで
おあいするだけでとてもさびしいおもいをしました...

その先はこんな内容だった。

アマーリエは遠縁のいとこだったか、その秋に4-5歳上の某一流銀行に勤めるサラリーマン
とお見合いをし ー先方さんは以前よりアマーリエを気に入っていたようだー 双方の両親も
この出会いを後押ししているとのことだった。だいぶまえよりそういう方向で調整されていた
らしい。ま、政略結婚みたいなものらしかった。

彼の気持ちはボーイにはよく分った。なんとなれば、アマーリエはジミーでみんな気が付いて
いないが、とても鼻筋が通った美人で性格も優しく奥さんにするには最適だったのだ。
ようやく聞き終えたぼくはこう尋ねた。
じゃあ彼と結婚するんだね?頷く。

わかったそうするときょうで最後だよね。

.....
もうそこにいる必要はなかった。

ぼくは伝票をもち立ち上がった。

(つづく)