(きのうの続き)
ハナシがずれた。
要は、サウジには用の無い人間には入れない国だったということを
強調したかったのだ。(いまは知りません)
サウジのジェッダで91年92年と二回会った。
二回とも疲れきっているようだった。
たまに帰国もされていたが、すぐ戻り台北香港経由で仕事をされ
サウジに戻った。
サウジの仕事が一段落して、こんどは香港駐在となった。彼には
古巣である。マンダリンもカントニーズもあるレヴェルまでできる
Wさんには、おそらく居心地が良かったかとおもう。
あいかわらず無茶苦茶な量の仕事で、本部では誰もやりたがらない
ような部類の現場の業務で、艱難辛苦された。
その頃私的に香港に行き、彼のフラットでしゅうらぶ店でチキンダック
チャアシュウなど買って一杯やった。火炭の駅近くで沙田の競馬場が
眼下に見えて、Wさんはご機嫌だった。競馬好きの彼は暇があれば
馬券をあちこちにあるジョッキークラブで求めていた。
(つづきは、これから仕事に行くので夜中に書きます)
本人いわく、ご自分の家族は母子家庭だ、と。
何年も留守でたまにしか帰って来ない、ハタ目茶状態。
何度か喧嘩もした。しばらくすると、どちらかが会社に電話かファックスで
連絡。
きょう どう?? ええよっ! てなことで仲直り。
96年の12月28日 大鳥の日 前日ANAで香港より戻ってきた
Wさんは、煙草を買いに1Fに行こうと、エレヴェーターに乗った。
階下に着く直前、わずか数秒のうちに脳幹破裂で倒れてしまった。
四十六歳だった。
亡くなられて十年目の昨暮、墓参りに行こうとおもっていたのだが、
止めた。 寺は駅前にある。
高架になった下りプラットホームから、狭いお寺の墓はよく見える。
なまじお墓にお参りするより ホームに立つたびに 彼を想い慕う。
そのほうが、Wさんにも自分にとり、あいふさわしいような気がしたのだ。
どうちぇ とボーイはいつも心のなかで謝し、
Wさんの冥福を祈っている。