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とてもいい歌に感動しました。

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2008-11-07 19:00:37
台湾の音楽らしいのですが、とてもいい歌に出合いました。

ドラマ仕立てですが、そこがまた感動モノです。

メロディといい、旋律といい、泣かせますね。

いまとても体調が悪いので、久々の書き込みですが、

この歌を紹介をしたくて書いてみました。

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【青春の轍-1-14】

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2006-11-13 17:21:20

人生とは、選択の歴史のような気がする。


何年生きたかにもよるだろうが、人生は選択の連続だ。


私はゲームプログラマーになって人生の双六(すごろく)の
ようなゲームを創ってみたいと思ったことがある。


その時考えたのだが、人生には一体いくつの選択肢が用意さ
れているのだろうか?…と、真剣に考えたものだ。


数千か?数万か?
はたまた数十万か?


私はそれら選択肢だけでできたゲームを創ろうと考えたのだ。


これはきっと面白いゲームになることだろう。


もし同じ人がゲームをやり直したとしても、指紋のように決
して同じ結果になることはない。


右に行くか?左に行くか?


もう一度同じ環境に生まれ変わって、人生をやり直すことが
可能だとしても、同じ人生を歩むということは決してない。


人生は選択肢の連続。
どちらを選択するかは、自分である。


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【青春の轍-1-14】


俺たち兄弟も貧乏暮らしにジッと我慢していたのだ。


それが爆発したといってもいい事件が俺ら兄弟に当時起きた。
牛乳屋を始めて2年ばかり経った頃だった。


店舗兼住宅の我が家では、牛乳を買いに来るお客も増えていた。
そのためのつり銭やら売上金を入れる木の箱があった。
その中から、お札を一枚抜き取るのである。


それは長男の考えであった。
しかしお札を抜き取るのは次兄や俺の役目だった。


長男はその金を家の外で受け取ると、俺たち弟を引き連れて
八百屋か魚屋へ向かい、そのお札を俺か次兄に渡すと、ソー
セージを買ってくるようにいうのである。


ソーセージは当時発売されたばかりの新製品で、とにかくそ
の美味いことといったらなかった。


まだソーセージは高価な商品だったから、ふだん口にするこ
とはできない。
そんなソーセージを長男のいうままになっては、神社の裏に
隠れて貪り食うのだった。


しかし、悪いことはそう長くは続かないものだ…。
10回目辺りだったろうか、段々と調子付いてきた俺らは、
ついに母親に見つかってしまった。


母から父へ告げられ、その日の夜には父親の拳骨が長男の頭
に飛んだ。
見つかったのは俺だったか、次兄だったのか、今となっては
記憶が定かではない。
ただ、俺らの口から糸を引いてたのは長男であることがすぐ
にばれた。


長男は父親の拳骨に3メートルは飛ばされたのを記憶してい
る。


殴られたのは長男一人だけだったが、俺と次兄は父親の怖さ
にただただ震えていた。


今になって思い起こせば、貧乏が招いた悲劇でもある。
(次号へ)

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【青春の轍-1-13】

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2006-11-09 10:39:03

人間は一体どこへ向かって歩んでいるのだろうか?


間もなく還暦を迎えようとする人間がこんなことを言うと
何を青臭いことを言っているのか…と、
お叱りを受けるかもしれない気もするが、


本気でそう思うことがよくある。


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【青春の轍-1-13】


安長屋から牛乳屋に改装された借家へ移ったといっても、店舗
兼処理工場の部分が改装されただけで、居住空間は8畳と4畳
半の二間に狭い台所とトイレだけの粗末な家だった。


8畳間は茶の間兼客間兼勉強部屋兼リビングを兼ねていて、俺
たち家族の5人は大半をこの一部屋で過ごした。
食事と寝室は4畳半の部屋だった。
夜はこの4畳半の一間に親子5人が寝た。
居住空間だけをみると、あの長屋の方が広くて快適だった。


長屋との大きな違いは、トイレが家の中にあることだった。
長屋のときはトイレは外にある共同トイレだったから、その点
だけは便利だった。
ただやはり風呂はなかったから、これまで通り風呂は町の共同
浴場へ行くしかなかった。


まだほとんどの家には風呂が無い時代で、家に風呂があるとい
うのは金持の家に決まっていたし、家の中に風呂を持つことは
テレビ以上に一般人の憧れであった。


親類の和哉さんの家とは長屋の頃から比べれば500メートル
ばかり遠くなったが、それでも俺たち兄弟はよく和哉さんの家
に遊びに行った。


そんな和哉さんら兄弟とは実の兄弟のように仲良くしていたか
ら、共同浴場に行くのもほとんど一緒に行くのだった。


町には共同浴場が5箇所ばかりあった。
温泉町であり、当時全国一安い共同浴場としてニュースで紹介
されたりしていた。


俺たちは徒党を組んでお気に入りの町で一番広い共同浴場へ行
くのが普通だった。
そこは俺の家から3キロもあった。


冬場は共同浴場からの帰り道、俺たち皆は濡れた手ぬぐいを両
手で広げて旗のように持って帰るのだった。
今思っても面白い格好であるが、家に近づくにしたがって、濡
れた手ぬぐいはみるみる凍りつき、硬いせんべいのようになる
のである。
その硬さを競うのだ。
片手で頭よりも上にかざして折れたり曲がったりしないのが一
番優秀なのである。


そんな和哉さんの家にも、俺が小学5年生の頃、家の中に風呂
が造られたのだった。


俺たち兄弟もそんな内風呂に入らせてもらおうと、早速駆けつ
けた。


しかし、俺らは風呂に入るのを諦めて帰ってきた。
和哉さんの父、つまり俺の父の弟の叔父さんの一言に俺たち兄
弟は子供ながらも憤怒を覚えたからである。


和哉さんの父は虫の居所が悪かったのか、酒臭い顔で俺たち兄
弟に向かって、
「まだ来てっか、お前ら、ほいどみだいして」
と罵声を浴びせたのだ。
「ほいど」とは乞食の意味の方言である。


一種の事件だった。
振り返れば、これまでも何度かそんなことがあった。
しかし大人に近づいていた俺の長男は、今回の事件以後、和哉
さんの家には行こうとしなくなった。


和哉さんの家は金持である。
着るものも俺ら兄弟とは違うし、自転車にしても高価な子供用
の自転車を買ってもらっていた。


家の手伝いをしなくとも毎日の小遣いを貰っていたし、祭りに
行くときは俺たち兄弟よりはいつも一桁違う金額を持っていた。


まだ多くの子供が貧しかった時代。
そんな金持の子供からおごって貰うために、ぞろぞろと付いて
回る近所の子供の一団が自然とできる。
金持の子供は、そんな貧しい子供たちを引き連れ、ガキ大将の
ように振舞っていた。
(次号へ)

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【青春の轍-1-12】

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2006-11-08 11:07:59

命の時間


命には時間がある


花の命、動物の命、木々の命、人間の命、それに山の命という
いい方もある
そう物にも命があり、全てのものに命があるのだ


花は枯れるものという概念があるから、あまり命を意識しない
が、動物を飼ってみると、そこではいやおうなく命と向き合わ
される


犬や猫を飼ったことのある方ならすぐ理解できるだろう


ドッグイヤーという言葉もあるように、犬や猫の命ははかなく
短い


長年動物を飼っていると、命のはかなさと同時に尊さを教えら
れる


世は空前のペットブームのようだが、飼い切れなくて途中で捨
ててしまう数も相当多いと聞く


そういう家庭や環境で育った子供たちは、どんな大人に育つの
だろう…と危惧してしまう


いま、子供たちは命の尊さを知らな過ぎるのではないかと思っ
ている


命の大切さ尊さを知っていれば、もっと子供の自殺は防げるの
では…とも思っている


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【青春の轍-1-12】


翌年になって俺が小学4年生になると、俺も兄たち同様に牛乳
配達をさせられた。


慣れるまでは早朝5時に起きられず、寝ぼけ眼で牛乳を配って
歩いた。


子供用の自転車は高価で買ってもらえず、大人用の自転車のハ
ンドル左右に、ズック布で作った袋に20本ずつ牛乳を入れて
バランスをとる。


当然小学4年生の俺にはまだ乗りこなせないので、自転車をた
だ引いて歩くだけだ。


俺はまだ始めたばかりということもあって、家の近所の地区を
受け持たされた。


これまで次兄の受け持っていた地区だったので、小学6年生に
なった次兄は少し離れた場所に移動されたのだった。


この牛乳配達の家の手伝いが、俺たち兄弟の小遣いになった。


これまで決まった小遣いというのを貰ってなかった俺たち兄弟
は、給料という名目ではあったが、毎月決まった小遣いをもら
えることが嬉しくて、眠くて辛いのであるが我慢できるのだっ
た。


でも雨や雪の日の牛乳配達は辛かった。


新聞なら配ってお終いであるが、牛乳配達は空瓶回収という仕
事も加わる。
特に雨の日の配達は嫌だった。

空瓶に雨水が入っていて、それを逆さにして中の水を出してか
ら回収するのである。
冬は軍手をして配達するのだが、雨水が溜まっていると軍手は
すぐにぐちょぐちょに濡れて、濡れた手は冷たさで痛くなるの
だ。


時々は濡れた軍手を外し、息を吹きかけては体温を取り戻さな
いと痺れや痛みが取れないのである。
また雨は衣服を下着まで濡らした。
配達から戻ると、冷たさで震える濡れた体を拭き、全部着替え
なければならなかった。


また、当時牛乳配達は年中無休であった。
新聞配達は一年の中で1月1日の元旦の朝だけは休日である。
次第に休日の無い牛乳配達というのに不満がつのってきた。


友達や他の普通の子供たちは寝ている時間に、何で俺たちだけ
が毎朝こんな仕事をしていなけりゃならないんだ…、という不
満であった。
せめて日曜日の朝だけでもぐっすり眠りたいなぁ~という気持
だった。
日曜や祝日の配達は雨が降ってなくとも辛いものがあった。


朝5時に起きるといっても、寝る時間は普通の子供いや大人と
同じ時間なのである。
新聞屋さんは午後8時か9時には眠ると聞いたが、俺の牛乳屋
では毎日午後11時過ぎでないと眠りにつかないのだった。


まだテレビの無い俺の家では、俺たち子供は近くの貸し本屋か
ら連日のように借りてきては兄弟で回し読みして楽しんでいた。
一家で一番早く起きなけりゃならない立場にある父は、そんな
俺ら兄弟を見て最初は怒ったが、それでも朝早くから家の仕事
を手伝っている哀れな子供たちという気持もあったのだろう、
次第に怒ることはしなくなった。
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【青春の轍-1-11】

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2006-11-07 10:08:52

農家ではたいてい猫を飼っている。
いや飼っていたが正解かもしれない。


ペットという意味合いもあるが、たいていはネズミ対策の一環
として飼っていた。


その農家が家を建て替えると、そこでは猫は邪魔な存在に一変
する。


かつては家族の一員として家の中で食事をしていた猫は、玄関
の外に置かれた食器で食事をさせられる。


たいていの農家の玄関口に猫の佇む姿が眼にされたものだ。


夜になると、寂しがり屋で寒がり屋の猫は「ミャーオ、ミャー
オ」と家の中に向かって玄関口で鳴く。


今はそういう光景もあまり眼にすることもなくなった。


それよりもネズミをくわえた猫というのを見かけなくなった。


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【青春の轍-1-11】


そんな風にして、父の牛乳製造販売店「白雪牛乳」は誕生した
のだった。


改装された借家の店舗には、「白雪牛乳」の大きな看板が掲げ
られており、店に入ると、これまで見たこともない不思議な機
械類がところ狭しと設置されており、また大きな冷蔵庫があり、
それに塗装されたばかりのあの香しい匂いが室内にたちこめて
いた。


安長屋から移った俺ら兄弟は、信じられない夢心地の中で父の
得意気に説明する声に耳を傾けるのだった。


店の真向かいが国内でも大手のM乳業で、バターや粉ミルクを
造っていた。


その玄関口の所に毎日近隣の酪農農家から絞りたての牛乳が運
び込まれて来る。


それらの集められた牛乳の一部を、父はリヤカーで買い付けに
行くのである。


父はどこで牛乳製造の技術を覚えたのかは知らない。
どこかに研修に行ったという話も聞いたことはない。


ボイラー室でボイラーに火を炊きつけ、そこから蒸気をパイプ
で製造工場の各機器に流し、全ての工程でその蒸気を利用する。


回転プロペラの付いたステンレス製の大きな寸胴で買い付けて
きた牛乳を熱する。
一定時間熱された牛乳は、今度は隣のすだれ状の冷却器の上部
から滝のように流されて急激に冷却される。

「これがホモジナイズ牛乳だ」

と、当時導入されたばかりの牛乳処理技術を口にした。


冷却された牛乳は貯蔵タンクに集められ、そこから最終段階の
瓶詰め処理される。
瓶詰めされた牛乳にキャップをすれば完成である。


それら一連の処理機器類が、改装された狭い空間に所狭しと並
んでいるのだ。


キャップをするのは足ふみ式の機械で、うまく中心に合わせな
いで踏み込むとキャップがずれてしまう。
家族みんなが交代しながら体験する。
失敗する度に狭い店舗兼処理工場内に笑い声が響いた。


終戦後の混乱期もようやく治まった時期とはいえ、まだ物不足
は続いており、牛乳もまた一般的な飲み物とはいえない時代で
あった。
牛乳を飲む人は病人か、または生活に余裕のある人に限られて
いた。


それでも父の眼の付け所は正しかったのか、程なくして注文が
次々と入り、配達用の自転車が一台、また一台と増えていき、
配達人のアルバイトの数も増えていった。


俺の長男と次男も登校前の朝の牛乳配達に駆り出された。

長男は中学2年生、次男は小学5年生だった。


そんな風にして、俺の家族の生活様式は一変したのである。
父は連日午前3時には起きてボイラーに火を入れた。
配達に駆り出された二人の兄たちも午前5時には起こされる。
俺が眼を覚ます午前6時半頃には二人の兄は配達から戻って
くるのだった。
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【青春の轍-1-10】

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2006-11-05 10:12:14

いじめの問題が連日報道されている。


難しい問題である。


というのは、いじめはどの社会にもあるからだ。


しかし大人になればその社会環境から転職という形で逃れられる。


子供は学校という場所以外に居場所が無いために深刻になる。


やはり子供にも逃げ場所(有効な環境回避策)を提供してやる
のがいいのではないかと思っている。
これは行政の力で取り組むべき問題である。


不登校は子供自身も引け目を感じて生きることになるし、親に
とっても悩みの種になる。
それを不登校でも堂々と明るい顔で親も子供も生きて行ける回
避策である。
それは第三の学校というべきものかもしれない。


話は少々変わるが、私が子供だった頃に思いをはせてみると、
子供には子供社会というものが歴然として存在する。
その子供社会に大人は誰も踏み込むことはできない。


分かりやすくいうと、子供社会とはサルの集団のようなものだ。
サルの集団に人間が入り込むことはできない。
サルの集団ではボスの座を巡って常に権力争いが起こっている。


もし本気で教育行政がいじめを無くす問題に取り組むのなら、
いじめ対策担当部署を各学校に設け、そこに学校関係者以外の
人を配置する。
そしてその部署は生徒の駆け込み寺的存在であり、担当者はそ
の学校の全生徒の力関係を知り、時には駆け込み生徒や先生の
カウンセリングを行ったり、場合によっては校長や担任の先生
と一緒になっての対応策を講じて、いじめ側の生徒を再教育し
たりもする。
学校関係者じゃない者を担当者として入れるということは、い
じめを隠蔽させないための対抗策である。
各学校の担当者は町単位で定期連絡会を設け、情報交換や勉強
会を開く。そしてその内容を教育委員会に報告する。
できたら内閣府にもいじめ対策担当大臣を設けたらいい。
文部省に任せていてはだめだ。


しかし、集団の中に本当のボスが居なくなった為のいじめ体質
である。本当のボスはいじめなんかしない。


私の体験談で恐縮だが、前作「青春の雨音」にも書いたとおり、
私は中学時代は番長各として学校に君臨し、学校の皆から恐れ
られていた。
そんな私は生徒間のけんかを仲裁したり、もちろんいじめなど
許さなかったから、今考えると、教師側は相当楽だったろうと
思う。
私の一声で教室内はおろか学校内が静まり返ったものだ。
今、そういう生徒がいないことが不幸である。


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【青春の轍-1-10】


どういう経緯で父が牛乳製造販売業に着手するようになったの
かは知らない。俺もこれまで父から聞いてなかったように思う。
母が何か知っているかもしれないので、母が生存する今のうち
に聞いておかなければと思っている。


ただ父が自分で商売を始めるということで、父の桜木一家にも
急に慌しさが訪れたのだった。
当時、俺たちの住む町には牛乳店が1件しかなかった。
その少なさに父は眼を付けたのかもしれなかった。


当時の思い出の中で、特に大きな思い出が一つある。
それは、父の始める牛乳店の名称を何にするか?…というもの
である。


長屋の生活もそろそろ終わろうという頃、父は牛乳キャップの
製造社から送られてきたサンプルを畳の上に並べて、取り巻く
家族の皆の意見を聞くのだった。


並べられた使用前の牛乳キャップを手に取りながら、俺は未知
なる新しい世界への夢と期待感という不思議な興奮感に浸った
ものである。
父は俺たち以上に興奮していただろう。


父からの催促で、俺たち子供は気ままに色々な名称を口にした。
長男が口にした「旭牛乳」か「朝日牛乳」が有力かなと思った
記憶が残っている。


でもその時は既に名称は決まっていたのかも知れない。
数日後に父の口から決まった名称が家族の皆に公表された。


「白雪牛乳」というものだった。


「白雪牛乳?…」
「なんでぇ~?」
「なんか変だよ~、変な名前だよ~」
などと、俺たち子供は口々にいったことを覚えている。
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【青春の轍-1-9】

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2006-11-03 08:35:57

カミングアウトという言葉を最近耳にするようになった。


カミングアウトするとは暴露するという意味である。


言葉というものは面白いもので、たちまちに一人歩きを始める。
また時代を映す鏡でもあるかもしれない。
最初に使った人が誰なのか?
その正体は分からなくともいいのだ。


自分の生まれ育った歴史(出来事)をブログに書いている私は、
まさにカミングアウトの中に身を置いている。


自分のことを書くとは、忠実に書けば書くほど辛い作業になる。

自分の事とはいえ100%カミングアウトすることはやはり出
来ないかもしれない。


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【青春の轍-1-9】


ただ一度だけ、その長屋で荒れた父の姿を眼にした日があった。
酒に酔った父は珍しく大声を上げて荒れていた。
俺らガキ3人は何事があったのかと遠巻きに父を見ていたが、そ
んな俺らをあっちへ行っていろと母は眼と手で合図するのだ。
俺ら3兄弟は心配しながらも2階の布団へもぐりこむのだった。


父の荒れたその原因が分かったのは、父の他界した後である。


昭和28年当時、後に映画やドラマにもなった保全経済会事件と
いうのがある。
俺もこの事件のTVドラマを見たことがあるが、主役は根津甚八
だったと覚えている。


高い高金利をうたい全国の大衆から60億もの金を集めて、後に
返済不能になって倒産し、そのあおりで全国各地でその被害者の
中から多くの自殺者が出で大事件になった。


父もこの被害者の一人だったのである。


インフレが激しい時代で、普通に銀行に預けていたのでは折角の
金がどんどん目減りしてしまう、そんな時代背景もあってか、そ
の違法な保全経済会の高金利に眼がくらんだ大衆は飛びついたの
である。


俺は、あれだけ貧乏暮らしだった我が家で、父が貯金していたと
いう話を母から聞いたとき、そんな余裕があったことに驚いたも
のである。


でも、母の話はそれでは終わらなかった。


あれだけ苦しい生活の中から、父はつま先に火をともす思いで蓄
えた20万円だったという。
父はその全額をあの保全経済会へと預けていたのだ。


目の前が真っ暗になった父は、将来を悲観し、一家心中まで考え
ていたというのである。


母は、父がいつ家族を手にかけるかと気が気ではなく、台所の包
丁は見つからないように隠したり、当時は夜になっても眠らない
で身構えていたそうだ。


その話を聞いたとき、俺ら兄弟は顔を見合わせて大きくため息を
ついたものである。


あの宝箱の長屋で、そんな事件があったことすら知らなかった。
その話は俺たちにとって、大きなショックだった。
「オレがしょげてる父親をなだめたり元気つけてやったから一家
心中しないで済んだんだよ」
と母は自慢げにいうのだった。


真面目で几帳面な父親の性格とは反対で、母親は楽天的で今でい
う天然系な人である。
そんな組み合わせがよかったのかもしれない。


そんな事件から立ち直った父は、再び爪に火をともしながら貯蓄
に勤め、30万円を貯めると製糸工場の勤めを辞めて、牛乳製造
販売店経営という自営業を開始したのである。


それは俺が小学3年生になると同時のことであった。
それと同時に父の桜木一家は5年間の長屋生活から抜け出し、駅
裏のM乳業工場の正面に借家を借り、店舗兼住宅に改造して一家
で移ったのだった。


しかし蓄えの30万円で足りるはずは無く、銀行から借りると同
時に、あの弟の和哉さんの父に再び頭を下げて50万円を借りた
のである。


「だから色々あったけど、コンニャク屋の悪口はいえないよ。助
けてもらったんだから」
と、母は俺たち子供に話したものである。
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【青春の轍-1-8】

テーマ:ブログ
2006-11-02 09:03:38

ワーキングプア社会についてもう少し書いてみると、それを貧困
層というらしい。


片方のニュースでは日本史上最高の好景気で、片方では拡大す

る貧困層社会のニュースが同時に流れているのだから、やはりこ

の国の中心はどこか?…となってしまう。


この今の日本でも毎年餓死者が出ているというのだ。


人間社会は収入という金額で、眼に見えぬ形でいつしか住み分け
されている。


いま高学歴者は富裕層が圧倒的数字であるという。


貧しさを知らない高学歴者達が公務員になり、政治家になり、医
師になり、教師になる社会なのだ。


そういえば、去年あたりから、負け組み勝ち組という言葉が急に
流行りだした。


皆が平等な社会というのは、やはり理想にすぎないのだろうか?
こういう文章を書いている自分も、負け組みの一人だと感じている。


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【青春の轍-1-8】


戦後3年目にして樺太から引き揚げることができた我が父の桜木
一家は、家財は全て失いながらも、俺を含めて5人の家族になっ
ていた。


引き揚げ船の中で次兄は腸カタルの病気に罹り、命を失いかけた
という。
引き揚げにまつわる話は後になって父や母からよく聞かされる話
だったが、次兄の体格が二つ年下の弟の俺と同じ位なのは、その
時の病気が原因しているらしかった。


北海道の稚内に降り立った父桜木一家は、一旦母の姉の嫁ぎ先の
足寄に向かい、3ヶ月ほど滞在した。

そこで次兄の体力の回復を待つとともに、今後の一家の行方を父
と母は相談したらしい。


父は先に帰国していた樺太時代の警察仲間から東京の警視庁へ

の誘いを受けていて、父もそのつもりでいたらしいが、当時の東京
はまだ終戦後の混乱期にあり、治安が悪く、母や母の身内は猛烈

に反対したようだ。


結局、父は警察官になることを諦め、元の郷里Y県のK市へ戻る
ことにしたのだった。


K市へ戻っても無一文の父桜木一家は住む場所はなく、仕方なく
実家の跡を継いでいる弟に頭を下げて物置小屋に住まわせてもら
うことになった。


物資の無い時代。当然歓迎される里帰りではなかった。
ありがた迷惑的な弟の態度に怒りを覚えたと、あまり感情を外に
表さない父ではあったが、その話をするときはいつも顔を曇らせ
たことを覚えている。


母も同じ気持ちだったらしい。
煮炊きするかまども使わせてもらえなかったと当時のことを語っ
ていた。
本当に鍋釜一つからそろえなければならなかったらしい。


郷里に戻った父は、闇の買出しでしばらくは生計をたてた。
ガキ3人を飢えさせることはできなかったのだろう。


2年ほど弟の小屋に世話になった父の桜木一家は、近くの安長屋
へ移ることができた。
その長屋では5年ばかり過ごすことになるのだが、俺の記憶もそ
の長屋からから始まっている。


父は町の製糸工場のトラック運転手の職を得て、休みなしに働く
のである。


俺にとってもその長屋での思い出は、今思っても楽しい思い出の
いっぱい詰まった宝箱である。
その中から一つのいい思い出話しをご披露しよう。


貧しかった俺の家では、当時子供の間で流行っていたトランプす
ら買えなかった。
何度もねだる子供たちに、父は自分でトランプを作ってくれたの
だった。
54枚ものカードには、裏には本物とそっくりの模様が描かれて
いて、俺ら兄弟は驚いたものである。
そういう風に何でもこなしてしまう器用な父だった。
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【青春の轍-1-7】

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2006-11-01 09:28:44

今年の日本はあのいざなぎ景気を超える史上最高の好景気だそう
だ。


しかし、その実感はない。


いま日本は、収入格差社会が拡大している。


ワーキングプア(働いても働いても収入が増えず暮らしが楽にな
らない)の問題も連日のようにテレビで流されている。


同じ国に住んでいながら、その中に暮らす人々の態様は実に様々
な訳である。
ということは、軸が見えない社会ともいえる。
軸とは中心である。
中心なき社会。


これはやはりおかしい。
軸のないコマは回転しないではないか…。
人間に置き換えてみれば、腰が据わらない人間ということになる。
そういえば今の日本は腰が据わらない人で溢れている。
これじゃ問題があちらこちらで頻発するのもうなずける。


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【青春の轍-1-7】

父の長男は東京へ出て都電の運転手。

次男は商売を嫌って当時では珍しいトラックの免許を取って運送
会社に勤めていた。


コンニャク屋の跡取りは三男の俺の父にお鉢が回ってきたのだが、
父はこのままでは4度目の軍隊招集があるだろうと考え、それを
嫌って当時28歳になっていたが年齢制限ぎりぎりで警察官の採
用試験を受けて合格し、勤務地に給料のよい樺太を選んだのであ
る。


そんな訳で本家のコンニャク屋の跡取りは四男の和哉さんの父が
継ぐことになったのだ。


父は前回の三度目の召集を受けた直後に結婚式を挙げ中国大陸へ
と渡っている。結婚当時父は24歳だった。母は18歳である。
当時はよくある親同士が決めた結婚だった。


家庭を持ってしまうと、男は戦場へは行きたくなくなるのだろう
か。父は4度目の招集は絶対に避けなければと必死で考えたと後
で俺に話してくれた。

そんな父は、警察官の赴任地樺太へ、2歳になったばかりの長男
の手を引きながら、親子三人で向かったのである。


次男が生まれたのは樺太で終戦の年。


父は特高(スパイ狩り)警官として勤務していたから、終戦後は
攻め込んできたロシア兵に逮捕された。
過酷な拷問にもあったという。


いよいよシベリアへ送られるという直前になって、その牢獄の中
から俺の父親だけが解放されたのだというのだ。


後で父から聞いた当時の話では、牢獄から開放された後、背後か
ら銃で撃たれると本気で思っていたそうである。
門の外へ出ても、今撃たれるか今撃たれるかと、生きた心地がし
なかったという。
膝はガクガクで、走ろうにも走れなかったそうだ。


シベリアへ送られた上司や同僚はついに帰らなかったそうである。


それから父は樺太の地で引き揚げまでの日々を過ごすのであるが、
そんな中で俺は生まれた。


父がシベリアへ送られていたなら、俺は生まれてこなかっただろ
う…。
後で何故俺の父だけが牢獄から解放されたのかを聞いたことがあ
るが、当の父本人も「分からない」というのである。
俺の名前ミツルはロシア人が付けたのだそうだ。
本国へ帰ったら別の名前に変えるつもりでいたそうだが、結局そ
のままの名前で出生届を出してしまったという。
(次号へ)

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【青春の轍-1-6】

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2006-10-31 08:12:44

私は終戦直後に生まれた、いわゆる団塊の世代である。


同世代の芸能人には、北野たけしや、吉田拓郎などがいる。
タモリは私の次兄と同じ年齢で、終戦の年の生まれだ。


戦後もだいぶ遠くなってしまった。

終戦などという言葉も一般的でなくなってきている。
太平洋戦争。


そういえば先日、アメリカで制作されたばかりの映画「父親たち
の硫黄島」というのがテレビで紹介されていた。
あのダーティーハリーのクリントイーストウッド監督で76歳だと
いう。


私の父が今書いている「青春の轍」に登場しているが、私の父も
三回も戦争に狩り出されて(召集されて)中国大陸を歩兵として
歩き回っている。
父らの世代は、青春時代は戦争とともにあったのだ。


私は不思議と父から戦争の話を聞くのが好きだった。


でも戦争が好きなわけではない。
父の思い出話を聞くのが好きなだけなのだ。


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【青春の轍-1-6】


父の紙芝居の話には後日談がある。


どうしても腑に落ちない俺は、前作「青春の雨音」にも登場した
例のコンニャク屋の和哉さんにもその件で確認してみた。

すると和哉さんは父の紙芝居を見たことがあるといった。
「そうだよね?やっていたよね?」
と俺はやはり幻ではなかったことを心の中で小躍りしながら喜ん
だ。


和哉さんに、母や長男はそのことを知らないんだよ、と俺は不思
議そうにいうと、
「伯父さんの紙芝居は半年くらいしかやらなかったからなぁ」
といった。
その他にも和哉さんはこんなこともいった。

「伯父さんはあの紙芝居で町のテキヤともめたらしいよ。紙芝居
にも縄張りがあるらしく、それを知らずに伯父さんはやったもん
だから、多分上前を取られたか痛めつけられたんじゃないかな」


さすがの俺もそこまでは知らなかった。
「へぇー、そんなことがあったんだ…」
と相槌を打ちながらも、母や長男も知らないことを知ってる和哉
さんをすごいと思った。
しかし、何故そんなことを和哉さんが知っているのか?…
俺はそんな疑問もわいてきたが、それよりも父の紙芝居が幻想で
はなかったことだけでも嬉しくて、和哉さんへの疑問は封印して
しまった。
ただ和哉さんは俺の父が好きで、よく二人で話している姿を思い
浮かべることができる。
そんなことから、俺たちの知らないことを和哉さんが知ってても
不思議ではないのである。


ちょっとここで、俺たちと和哉さんの関係を話しておきたい。
父は兄弟姉妹が8人いて、俺の父は男兄弟5人の中の三男で和哉
さんの父が四男だから俺の父の弟にあたる。


男兄弟5人いる中で、桜木家の本家を継いでいるのが四男の和哉
さんの父なのである。

時代は大正時代。
長男は東京へ出て都電の運転手をしているハイカラだった。


桜木家は俺の父が小学生の頃に現在M市の田舎から一家総出で今
のK市へ引っ越してきたのだという。


その原因を父から聞いたことがあるが、俺の祖父、いわゆる父の
父親が博打で田畑を全て失い、残った山だけでは生活できないの
で、その山を二束三文で売り払い、逃げ出すようにしてK市に移
り住んだのだという。


その金を元手にK市でコンニャク屋を始めたのだというのである。
そのコンニャク屋の商売が当たり、俺が物心がついた頃には和哉
さんの家は町内でも金持ちの部類に入っていた。
(次号へ)

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