昔、「空也」という人物について知ろうと、この本を買って、読んだのですが、どうも、よく分からなかった。
しかし、「聖」「念仏」「浄土教」などに、多少の知識を持ってから、再読してみると、なかなか、興味深く、面白い。
空也は、どのような人生を送ったのか。
空也の人生を知ることが出来る史料としては、まず「空也上人誄」があります。
この「空也上人誄」は、源為憲という人物が書いたもので、「誄」(るい)とは、亡くなった人の生前の功績をたたえ、遺徳を偲ぶ追悼文のこと。
この「空也上人誄」は、伝記的な内容の長文による散文の「序」と、四言三十四句からなる誄辞から構成されている。
成立時期は、よく分かっていないが、「誄」という性格からして、死後、間もない時期、一周忌の頃に、成立をしたと思われる。
空也の人生を記したものとしては、最も、早いもの。
源為憲が、この「空也上人誄」を書いたのは、34歳頃と想定され、為憲は、晩年の空也のことを知っていたと思われる。
しかし、空也との親交があった訳ではないよう。
なぜ、源為憲が、「空也上人誄」を書くことになったのか。
それは、空也の死に影響を受けた、勧学会に参加をしていた人たちから、推薦をされたのではないかということのよう。
この「勧学会」(かんがくえ)とは、平安時代の中期、後期に行われていた、「大学寮紀伝道」の学生と、比叡山延暦寺の僧侶が、寺院に集まり、「法華経」をテーマとした「法会」のこと。
源為憲は、この「空也上人誄」を書くにあたって、空也の弟子と言われる人たちから話を聞き、また、空也について書かれた文書、数十枚を集めたそうです。
そして、この「空也上人誄」には、空也が拠点にしていた西光寺の意向も含まれているのではないかということ。
この「空也上人誄」は、史実的なものと、伝説的なものが混在をしていて、必ずしも、事実を記そうとしている訳ではないよう。
しかし、源為憲は、意図して、創作を書いた訳ではなく、当時、すでに、空也の弟子たちの中で、そういった伝説的な話があり、それを聞いて、書き留めたのだろうと思われます。
空也の出自は、よく分かりません。
空也自身、自分の素性を、他人に話すことはなかったよう。
しかし、空也が、天皇の血を引く人物だという噂は、当時から、すでに、あったようです。
これは、恐らく、「聖人は、高貴な血を引くもの」という願望から来たものでしょう。
そして、空也は、まず「優婆塞」として、「五畿七道」を回り、「名山霊窟」で、修業をする。
この「優婆塞」とは、出家前の修行者のこと。
この頃、空也は、道を整えたり、井戸を掘ったりという作善を行った。
また、荒野に放置されていた遺体を集めて、油を注いで、火葬にし、念仏を行ったということ。
元々、「聖」という存在は、日本の各地を回り、修業をし、作善をするものです。
空也もまた、一人の「聖」として、日本の各地を回り、修業をし、作善を行っていたというのは、あり得る話で、むしろ「聖」としては、当然のこととも言える。
そして、空也の行動の特徴となるのは「念仏」ですが、当時は、「浄土思想」が、世の中に広まり始めていた時期。
個人的には、「念仏」を唱える聖は、空也の他にも居たのではないかと思うところ。
そして、この頃の「念仏」の役割は、「死者の霊の鎮魂」という呪術的なもの。
もちろん、「自ら、浄土に行くため」という役割も、当時からあったのでしょうが、「念仏」の役割としては、「鎮魂」の方が、大きかった。
空也は、二十数歳の時、尾張国の国分寺で、髪を剃り、「沙弥」となる。
この「沙弥」とは、具足戒を受ける前の剃髪初心の者。
この時から、「空也」と名乗る。
この「空也」には、「公野」「公也」と当て字をされたものもあり、基本的には「コウヤ」と読んだようです。
さて、沙弥となった空也は、播磨国の峯合寺で、数年の間、「一切経」を学ぶ。
また、阿波国、土佐国の海中にある湯島観音で、数ヶ月、苦行を行う。
空也の腕には、香を焚いた跡が残っていたそうで、それは、この時の苦行で行った腕上焼香の跡。
そして、空也は、奥羽に向かう。
この時、背中には仏像を背負い、経論を持ち、大きな法螺を吹きながら、法を説いたということ。
空也が、日本各地を回り、修業、作善をしていたというのは、「聖」として当然として、尾張国で「沙弥」となり、播磨国で「一切経」を学び、阿波国、土佐国で修業をし、奥州で布教活動をしたというのは、事実なのでしょうかね。
自分の出自を語らなかった空也が、自身の経歴を、詳しく、周囲に語ったとは思えない。
個人的な推測としては、やはり、この空也の経歴は、周囲が想像したものではないかと思うところ。
もっとも、空也が、自身の経歴について、全く、何も語らなかったという訳でもないでしょうから、断片的なヒントは、あったのかも知れない。
天慶元年(938)、空也は、京都に入る。三十代後半と思われる。
大きな疑問は、なぜ、空也は、京都に入ったのか。
この頃の、京都、平安京の状況です。
この年、4月から10月にかけて、地震が、相次ぐ。
また、天慶の前後、市中の人々は、疫病の流行や、鴨川の氾濫、群盗の横行に怯え、苦しんでいた。
また、この頃、山科里の北、藤尾寺の別道場に、石清水八幡大菩薩を祀って、霊験を宣伝する一人の尼が居て、民衆の支持を集めていたそう。
市中では、東西両京の街路に、陰陽を刻んだ木製の男女一対の神が立てられ、喧噪猥雑、極まりない状況。
つまり、京都、平安京は、天災、人災、疫病で、混乱の中にあった。
京都に入った空也は、「市」での乞食を始める。
当時、官営の東西の市があり、東市の方が栄えていた。
市人の活動は、市外にも広がり、二条、四条、七条辺りにまで広がっている。
空也は、市中での乞食で得た喜捨を、仏事や、貧民の救済に遣った。
そして、空也は、「市聖」と呼ばれるようになる。
つまり、空也は、都で苦しむ人々を救済するために、京都に入ったということになるのでしょう。
空也は、東部の獄舎の門に、卒塔婆一基を立て、囚徒教誡の機縁とする。
また、空也は、井戸を掘り、その井戸は「阿弥陀井」と呼ばれた。
そして、空也は、常に、「南無阿弥陀仏」と、念仏を唱えていた。
そのため、空也は「阿弥陀聖」とも呼ばれる。
天慶に入って、干ばつ、大雨で、作物は作れず、餓死者が多かった。
天慶2年から、米の価格が高騰。
平将門、藤原純友が、乱を起す。
天慶7年(944)、長谷寺が炎上。
このような中で、同年、空也は、「観音三十三身像一悼」「阿弥陀浄土変一舗」「補陀落浄土一舗」を完成させる。
天暦元年(947)、大雨、台風の被害。疫病の流行。
天暦2年(948)、群盗が横行。不作、二十五カ国に及ぶ。
天暦3年(949)、干ばつ。
天暦2年(948)、空也は、比叡山で、受戒。四十六歳。
空也は、天台僧として「光勝」という名前を貰いますが、沙弥としての「空也」の名前を改めることはなかった。
天暦4年(950)、空也は、「大般若経」の書写を始める。
天暦5年(951)、空也は、「金色一丈観音像一体」「六尺梵王」「帝釈」「四天王」、各一体を作る。
これらは、西光寺に納められるが、現在、六波羅蜜寺に、本尊十一面観音立像、四天王像のうち、鎌倉時代に創られたものを除く三体が、現存。
応和3年(963)、14年をかけて、紺紙金泥、水晶軸、雲母帙の「大般若経」が完成。
この間も、地震、洪水、干ばつ、疫病、盗賊の横行は、続く。
同年8月、鴨川の西岸に建てられた仮の仏殿で、六百の僧が集まり、「大般若経」の供養会が行われる。朝廷からも、銭十貫文を賜り、左大臣、藤原実頼以下、結縁する者も多かった。三善道統が、願文を書く。
天禄元年(970)、空也と親しかった大納言、藤原師氏が、亡くなる。
藤原師氏は、東山で火葬されるが、空也は、この時、閻羅王に牒状(訴え文)を書き、これを権律師、余慶に読ませる。
天禄3年(973)9月、空也、西光寺で、没する。70歳。
恐らく、京都に入ってからの空也の経歴には、間違いは無いものと思われます。
多くの人が、空也を知り、その活動を知るには、情報は豊富にあったことでしょう。
個人的に、意外なことは、「聖」である空也が、京都での活動の中で、かなり身分の高い人とも交流を持つようになったということ。
そして、かなり、大規模なイベントを開き、仏像の製造もしている。
これには、かなりの資金が必要だったと思われますが、空也の京都での活動は、身分の高い人も含めて、多くの喜捨を呼んだということなのでしょう。
そして、空也は、正式な天台僧ともなったのですが、「沙弥」であることを続けた。
それは、恐らく、大寺院の中に所属する「僧」ではなく、あくまでも、民衆の中に居る「聖」であることを自身の役割と考えたからではないでしょうか。
他にも、上の本の中には、面白い話が、いくつか。
それは、また、この次に。
