北大谷古墳から丘を下って、大善寺にやって来ました。
今日は大判のタオルハンカチを持参してきたのですが、さすがにもうびっしょりです。普通に歩いているだけでも汗が出るくらいなので、大した高さではなくとも、山道はキツイですね。
そんな訳で、まずは鯉が泳ぐ池へ向かいます。丘の斜面を利用して水が流れているようなので、納涼にはぴったり。東屋でひと休みします。
っと、入口に注意書きがありますね。「エサをあげないで!」と書かれています。続けて中フォントで「コイは眺めるだけにしましょう」と記され、文章中には「餌やりではなく愛でてあげてください」とも。これは僕も常々思っていることで、先日もこのブログで「可愛がるって何でしょうね」と言いました。
「生きる」って、究極的には「食べる」なので、そこに食べ物があれば、生き物は喰らいつきます。人間目線で言えば、気を引ける。餌は文字通り生命線ですから、生殺与奪を握っているという優越感も無意識に感じているかもしれない。単純に映え狙いかもしれない。
同じ生き物の仲間なはずなのに、彼らの生存を脅かす人間。生き物たちからすれば、「人間なんていなくなってしまえばいいのに」っていうくらいの存在になってしまいました。食物連鎖で捕食されるのは仕方ないけど、それ以外の理由で命を弄ぶ人間。自らもそんな人間の一員であるという自覚は必要でしょうね。
鮮やかな錦鯉が泳いでいますが、池にネットが張られているのは何故だろう。
あぁなるほど。鷺恐るべし。確か谷保天満宮(国立市)にもネットがあった気がする。
池の上にある動物愛護墓にお参りします。道筋に動物の足跡がペイントされています。
こうして丁寧に供養してもらえるペット動物もいれば、無責任な人間に命を翻弄されて、殺処分という地獄を見る犬猫もいる。
「可哀想!殺処分なんてしないで!」というお気持ちは分かるけど、誰だって現代のアウシュビッツのようなことをしたいなんて思っていない。そんな状況にしてしまったのは人間なのです。「私じゃない」と当事者意識を持たないままでいたら、状況は何も変わらないでしょう。
ちなみにいわゆる捨て猫や捨て犬の処分は、動物愛護法の規定によって都道府県が引き取り、保健所が行っています。
大善寺の境内を上っていくと富士見台霊園があり、松本清張(平成4年没)や赤塚不二夫(平成20年没)のお墓があります。
赤塚不二夫が描いたバカボンのパパの決め台詞「これでいいのだ」が、悟りの境地(=全てを受け入れる)を表しているというのは割と知られた話かと思います。そもそもバカボンは薄伽梵(ばぎゃぼん/お釈迦様の異名)から名付けられたと言われています(バガボンド説もあり)
さらには、「お出掛けですか」と声を掛けてくるレレレのおじさんは、周利槃特(しゅりはんどく/釈迦の弟子)がモデルだという説もあります。
愚鈍で何も身に付かなかった周利槃特は、お釈迦様から箒を渡され、毎日掃除をするよう言いつけられました。彼は愚直かつ忠実にそれを守り、いつしか自身の因縁をも掃き清め、悟りの境地に至っています。
次回は汗だくの体を冷やす為、森林浴に向かいます。それではまた!