- 昨夜は結局明け方まで読んでしまった。
- ピーター エルブリング, Peter Elbling, 鈴木 主税
- 毒味役
題に惹かれたのと作者が架空の古文書を翻訳するという
設定が面白そうなのでついつい読んでしまった。
ミステリ仕立てかと思ったら意外とそうでもなく一番
楽しんでいたのは作者かなという作品。
貧乏農夫が領主の毒味役にむりやりさせられて娘とともに
城で様々な事に出会うというだけの話。
- 長谷川 卓
- 血路―南稜七ツ家秘録
- 武田の暗殺集団かまきりと山の者七ツ家との血みどろの
- 死闘、滅ぼされた城の遺児が巻き込まれスピード感あふれる
- 闘いの連続。
- 諸田 玲子
- 紅の袖
時は幕末黒船来襲でにぎわう品川御殿山、砲台建設のため
集まった人の中で男女4人がともに住むことに、人間の心と身体の襞を
描き出す人情物。
- 近藤 史恵
- 二人道成寺
探偵今泉文吾シリーズ、梨園の難事件を役者小菊とともに
あざやかに解決する。
- 押川 国秋
- 辻斬り
三十俵二人扶持の貧乏御家人が職場でも家でも行き場
を失いとうとう辻斬りに、その快感に身を震わせるも、公儀
の手のものが・・・・
- 和田 はつ子
- 手鞠花おゆう〔文庫版〕
口中医(歯医者)桂助の南天ウサギに次ぐシリーズ。
呉服屋の美人女将おゆうをすくうが、はたしておゆうの
正体は・・・ミステリ時代物としては面白い。
- 澤田 ふじ子
- 暗闇心中
作者の悲恋物8編をまとめたもの、運命に翻弄される男女
をうら悲しく、狂おしいまでの切なさで描く短編集。
- 高橋 三千綱
- 空の剣―男谷精一郎の孤独
- 男谷精一郎 1978-1864 寛政10年-元治元年
数多い剣豪の中でも幕末に生き、剣精といわれたのは
男谷精一郎ただ一人。あまりしられてないその青春群像
直木三十五、や菊池寛等など色々な文豪が描けなかった
男谷精一郎の話。古くは上泉信綱、塚原ト伝等、
この時代はキラ星のごとく江戸に剣豪が数多くいた。
北辰一刀流千葉周作、神道無念流斎藤彌久郎、
桃井俊造、伊庭八郎、相馬大作、榊原鍵吉、島田虎之助
まだまだ大勢いますがなんといってもすさまじかったのが
彼がが師事した平山行蔵です。
平山行蔵
http://www.hokuriku.ne.jp/genkai/83hiraya.htm
男谷精一郎
http://edo400.net/history/?PID=1310&CID=25
平山 行蔵
1759~1828 |
江戸の四谷北伊賀町伊賀衆の家に生まれました。家は代々伊賀組同心をしていて、30俵2人扶持で身分が低かった。しかし、近藤重蔵、間宮林蔵とともに「蝦夷の三蔵」と呼ばれた幕末の奇傑である。いち早くロシアの南下政策に警鐘を鳴らし、海防の急を唱えたためである。
行蔵は師匠の山田茂兵衛から真貫流を学び、(真貫流はタイ捨流の丸目蔵人の流れを継いだ奥山左衛門太夫忠信が興した。山田は九代目に当る)剣術、槍術、弓術、など武芸十八般に通じていた。髪は総髪にして着物はどんな時でも袷一枚で、足袋は履かずに、常に六尺余りの大太刀を携えて、重さ八貫の鉄杖をつき、江戸の町を颯爽と闊歩していたという。
修行時代は毎朝午前4時に起床して、冷水で体を清め、祖先の霊を拝したのち、庭で振り棒を振り、居合を抜き、弓、馬、などを練磨していた。その朝稽古が正確だったので、近所では「平山の七つ時」と呼ばれていたそうな。道場には様々な武具が揃っていて、中には重さ十二貫の鉄の棒や、重さ二十五貫の大鉞などがあり、これらを振っていたという。
学識は高かった。蔵書は和漢の兵書、城郭の地図や兵器の図など多数持っていて、それらを二尺四方の槻の板の上に座布団代わりに座り、その板を拳を突き当てながら読書したという。それにより、拳は石の様に硬くなり、この拳で人の胸板ぐらいを突き砕く事が出来ると豪語したという。その犠牲者に当時の関取「雷電」がいたという。
門下には、勝海舟の父、勝小吉がいた。ある日、小吉が行蔵に飯を御馳走になった。縁欠け椀に玄米飯。脇に味噌が少しだけついていた。小吉はそれを5、6杯お替りをすると、行蔵は、 「当家に来てこんなに食った奴はおらん。」と喜び、珍しくにこにことしたという。小吉の他には、下斗米秀之進(相馬大作)、呑敵斎吉里信武、松村伊三郎、小田武右衛門が俗に兵原門下の四天王といわれた。
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下斗米 秀之進
(相馬 大作)
1789~1822 |
寛政元(1789)年、盛岡藩二戸郡福岡村(二戸市)に生まれた秀之進は、無類のきかん坊だったが、兄が病弱で、父母に「家督は弟に譲って下さい」と頼んでいるのを盗み聞き、兄の事を思い、18歳で脱藩して江戸に上った。そして、平山行蔵の門下となり武道に精進、四傑の一人と呼ばれるほどに腕をあげて帰国し、郷里・福岡に講武場兵聖閣を設けて武術の教授を始めました。
そんな矢先の文政3(1820)年、盛岡藩主利敬(としたか)が39歳の若さで世を去り、遺領を利用(としもち)が継ぎます。利敬の早すぎる死は、弘前藩に対する積年の鬱憤が原因といわれます。この当時、利用はまだ14歳で無位無官、それに対してもともと家臣筋とみられていた津軽寧親は従四位下(じゅしいのげ)侍従に叙任されています。このことに不満を抱いた秀之進は、寧親に果たし状を送って辞官隠居を勧め、それが聞き入れられないときには「悔辱の怨を報じ申すべく候」と暗殺を伝えます。
文政4(1821)年、秀之進は江戸から帰国途中の寧親を秋田藩白沢駅(大館市)付近で狙撃しようと計画しますが仲間の密告によって失敗、藩を出奔(しゅっぽん)して江戸に逃れ「相馬大作」と名を変えますが、同年幕吏に捕らえられ翌年獄門の刑に処せられます。しかしこの事件によって寧親は隠居に追い込まれたことから、結果的には秀之進の目的は達せられたということになります。
当時の江戸市民は秀之進の行動に大いに感動し、事件は講談や小説の題材としてもてはやされました。幕末の水戸藩の尊皇攘夷論者で西郷隆盛や橋本左内(さない)らに強い影響を与えた藤田東湖(とうこ)はその義烈をたたえ、長州藩の吉田松陰は長歌を詠じて秀之進を追慕しています。
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男谷 精一郎
1798~1864 |
男谷精一郎信友は、寛政10年(1798)幕臣男谷新次郎信連の嫡男として生まれたが、20歳の時に同族の男谷彦四郎忠果の二女の婿養子に迎えられました。養父の彦四郎は江戸で有名な金貸しで七十万両の巨富を築いた、「からす金検校」の異名を取った男谷検校の孫であります。
男谷は15歳の時に、四谷の平山行蔵のの門に入った。しかし、平山行蔵の道場は、幕府に提出した北辺防衛の建白書が余りにも過激であったためお咎めを受け、男谷が16歳の時に閉めねばならなかった。男谷は平山の紹介で、本所亀沢町に道場をもつ直心影流、団野真帆斎の弟子となりました。そして19歳の頃には師を凌ぐほどの腕前となっていたそうです。
男谷は他流試合をするときはどんな相手でも、三本試合のうち一本を相手にとらせて勝つことが出来るほどの剣の境地に達していたという。
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| 榊原 健吉 |
榊原健吉は天保元年(1830)に江戸の麻布広尾に生まれました。家は貧しかったですが13歳の時に男谷信友の道場に入門していました。
直心影流の稽古の中で長さ六尺重さが三貫の振り棒を、500回、1000回、2000回と振ったといわれている。その荒行の所為か、健吉の腕周りは55センチもあったと言われている。後年、健吉の弟子の山田次郎吉が、師の用いていた重さ十五貫の振り棒を、二回振って気絶したが、数日後には振り慣らしたという。 |