俳句誌「遊俳」から転載                       

「ゴキブリは音から先にやって来る」


柳家小三治がとある句会で詠んだ句だが、これを「ゴキブリが音から先にやって来る」とした方がいいと即座に直した人がいる。この句会の主宰で小三治の盟友、故入船亭扇橋(俳号光石)だ。確かに前者が面白いがやや説明的なのに比べ、後者は俄然臨場感をもって迫って来る感じがする。
扇橋は実に味わいのある噺家だった。とぼけていて、晩年はときに何言ってるのかわからないときもあったがそれでも笑った。小三治とは仲がよく、高座で「小三治の”ちはやふる”を楽屋袖でで聴いてると、滑稽噺なのに泣けてくるんですよ」と言ってたことを思い出す。
落語の国に住む住民の愛おしさが小三治の話芸から感じられたのだと思う。それがわかる扇橋の感性が俳人たる由縁なのだろう。
彼の「東京やなぎ句会」には様々な著名人が参加していた。永六輔、小沢昭一、江國滋、桂米朝、大西信行、矢野誠一など。欠席するときは未婚の女性を代わりに差し向ける規則があったとかなかったとか。
小三治の高座ではたまにまくらでこの句会のことを話してくれるときがある。
「煮凝り」という題が出た。
小沢昭一「煮凝りを出すスナックのママの過去」
見事だが小三治のもいい。
「煮凝りの 身だけ選ってる アメリカ人」
これには皆爆笑した。
最近の小三治自信作は「入学の孫から届く手紙かな」

本人いわく小沢昭一の句みたいに気障でなくていいとのことだ。アメリカ人と煮凝りの句の方が断然いいと思うが。

俳句の話題からお茶の入れ方に話は移り、ペットボトルで当たり前のようにお茶を飲む昨今の風潮を嘆いていた。近年茶柱が入っているペットボトルが発売されたとかで(真偽のほどは分からないが)そのナンセンスさを怒る。つまり作る側には「良かれ」と思う思想があっても、それを買って飲む茶柱知らない世代にはただのゴミだと。確かにそうだ。急須でお茶を入れて、濃いだの薄いだの熱かっただの温かっただのと家族で話すのが人間らしい暮らしかもしれない。今一番人間らしい暮らしをしているのは噺家だけだというオマケが付く。

次に季節がら桜の話題。

ここでも小三治の蘊蓄は留まらず、いつから日本人が今のように桜を見ながら飲み食いするようになったかという…この先はきりがないので止めておこう。そうして自然と「長屋の花見」に入っていった。

「長屋の花見」のサゲは「大家さん、今年はいいことありますよ、酒柱が立ってる」ペットボトルの茶柱の話が効いている。

小三治のまくらに偶然はない。