その83 「詩人の恋」ベストテン

 ハイネの「叙情的間奏曲」から16編に作曲されたシューマンの歌曲集で、初めて聴いたのは高校生の頃、ラジオで流れたフィッシャー・ディースカウと小林道夫のライブ演奏だった。内容も大して解らないまま聴いたにもかかわらず、歌とピアノの織り成すロマンティックな響きに夢中になったものだ。当時のピアノの先生も若いころSPレコードで「詩人の恋」を熱に浮かされたように毎日聴いていたという。青少年が恋に憧れ、音楽の世界で昇華したいというのは時代に関係ないのかもしれない。ハイネが女性を見つめる皮肉には全く気付きもせずに・・・そのSPレコードとはシャルル・パンゼラ(Br.)とアルフレッド・コルトー(P.)によるもので、現在名盤の復刻としてCDで聴くことができる。少しはいろんなことが判るようになった今、このフランス人コンビのドイツ歌曲に難点を見出すことはたやすい。パンゼラはフィッシャー・ディースカウのフレージングに比べると雑だし、言葉も不明瞭である。コルトーはあちこちで和音をばらけさせたり、(ピアノの)声部をわざとずらして情緒過多と言えなくもない。アンサンブルとしてもときどき破綻を見せている。しかし・・・心地よいことこの上ない。それは演奏した時がシューマンの生きていた時代により近いところから来る空気感のようなものだろうか。巨匠二人の教養と人格、もちろん音楽性に対する安心感なのだろうか。録音状態が悪いはずなのに、声のビロードのような柔らかさ、ピアノの音色の多彩さが伝わってくる。以前オーケストラのCDは録音のよいのが何より、などと書いたが、歌はそういうわけにいかない。朝昇龍と千代の富士みたいに時代の違う関取は、どちらが強いか論じるのも無駄だが(楽しいけど)、歌手についてはかなり冷静に録音で比較できる。たとえばナタリー・デッセーはジョーン・サザーランドの足元にも及ばない。

 ざっと「詩人の恋」のベストテンを挙げてみる。

実際のコンサートではスイスで聴いたフランシスコ・アライザ(Ten.)とアーウィン・ゲイジ(P.)が素晴らしかった。ゲイジはプライ(Br.)やファスベンダー(MS)との演奏でも聴いたが、彼らとは中声用の調なので、やはり高い原調の魅力は大きい。持ってるCDを基本にしているので、他にも名演奏はあるかもしれない。

 
 1.ペーター・シュライアー(Ten.) クリストフ・エッシェンバッハ(P.
 2.フィッシャー・ディースカウ(Br.) クリストフ・エッシェンバッハ(P.
 3.オラフ・ベーア(Br.) ジェフリー・パーソンズ(P.
 4.フリッツ・ウンダーリッヒ(Ten.) フーベルト・ギーセン(P.
 5.イアン・ボストリッジ(Ten.) ジュリアス・ドレイク(P.)
 6.シャルル・パンゼラ(Br.) アルフレッド・コルトー(P.
 7.トム・クラウゼ(Br.) アーウィン・ゲイジ(P.
 8.ヘルマン・プライ(Br.) レナード・ホカンソン(P.)
 9.テオ・アダム(B) イェルク・デームス(P.
 10.クリスティアン・ゲルハーエル(Br.) ゲロルト・フーバー(P.)
 

 シューマンはピアノのパートがどの作曲家にもまして重要なので、いくら伴奏の名手でもジェラルド・ムーアのピアノではもの足らず、ソリストで言葉に感性のあるピアニストがお勧めだ。上記ではエッシェンバッハが特に素晴らしい。アシュケナージ(P.)もゲルネと録音しているが、つまらないし、シドン(P.)もクヴァストホフとのCDがあるが同様である。ソリストだから必ずしも面白くなるとは限らない。CD化されてないが、ホロヴィッツ(歌はディースカウ)のは別の意味で面白い。徹底的に歌手と言葉を無視してやりたい放題である。歌は好みでいろいろだが、ヴンダーリッヒが最も印象に残る。テノールとしての声質の高さはボストリッジと比較するまでもない。表現に後者ほどのナイーヴさがないのは確かだが。

 
 

その84 ナガサキ・ジャーニー

 

今年の夏は異常に暑いが、久しぶりの長崎もまた暑かった。いつものように当て所もなく坂の路地をうろついたが、汗がしたたり落ちた。今回は、出身の高校が3年生を対象にした卒業生との交流会のようなものを行い、それに参加するため。もっと具体的に言うと、東京在住の卒業生がコーラスをやっており、後輩の前で披露するその伴奏を頼まれたのだ。ついでにソロもというので、あいよっとばかりに弾いてきた。 それにしても受験を控えて、この猛暑の中補習授業を受け、さらに暑い体育館の中で先輩とはいえ見知らぬ大人の演奏を聴かされて、さぞや災難かと思いきや、意外と楽しんでもらえたようである。それよりじっと1時間おとなしく聴いてくれる姿に打たれたな。さすがは長崎北高だ。 今年野球部は甲子園の地区大会決勝で敗れたが(注)、ラグビー部が花園で活躍した時には、筑紫哲也氏が掛け値なしに文武両道であることを自身の番組で紹介していた。だから同級生にもいろんな人間がいるが、長崎で「マジックシアター」なる店を経営しているプロのマジシャン小川心平もその一人だ。かつてテレビタックルで超能力と対峙する側の人間として出演していたので見たことのある人も多いだろう。テーブルマジックの天才といってよい。彼の店で深夜まで同級生数人と過ごしたが、いやはや気持ちよくだまされて快適だった。狭い長崎が変貌することはあるまいと思っていたが(実際無数の坂のたたずまいはちっとも変わらない)港のあたりは新たに 埋め立てられ、水辺の森公園ができたのと同時に、新県立美術館が オープンした。この建物が素晴らしい。ガラス張りの明るい意匠で空中渡り廊下の下を運河が流れている。長崎を訪れる人は教会・洋館・原爆資料館・中国寺院などとともに足を運んでもらいたい。 ちょうどロバート・キャパの写真展をやっていた。0世紀最大の報道写真家でスペイン市民戦争、日中戦争、第2次世界大戦、中東戦争の最前線で数々の歴史的写真を残している。インドシナ戦線の地雷で命を落とした時はまだ40歳であった。 写真展のチラシをリンクする。れらの写真にはいろいろな戦争の真っ只中、生身の人間の姿が写し出されている。撃たれる兵士、逃げ惑う家族、抵抗する市民、負傷した子供、歓喜する民衆などなど。いくつもの戦争を圧倒的事実で見せつけられた気がした。キャパの写真につながる様にジョー・オダネルの「被爆した弟を背負う長崎の少年-1945」が展示されていた。これはアメリカの報道写真家が原爆投下直後に撮影し、あまりの悲しみに封印し、43年後に発表されセンセーショナルを巻き起こした写真だ。幼い弟を荼毘にふす少年の決意には誰しも打ちのめされるだろう。さらに山端庸介が原爆投下翌日に撮影した写真(ナガサキ・ジャーニー)も展示されており、多くの人々が見入っていた。血だらけの赤ん坊に授乳する若い母親の写真は哀しくもまた厳粛である。市民のために提供されたエリアでは、小学校の平和教育の一環として生徒たちが描いた巨大な原爆の絵 「火のトンネル」が掲げられていた。 ピカソのゲルニカと同じテーマであり、これを描いてる間の小 学生の心は、同じ学校で亡くなった子供たちへの同情でいっぱいだったことだろう。 美術館滞在わずか2時間で、生きていることの不思議さえ思っ た。今年の夏は異常に暑いが、その中で坂の上り下りに自身の体の重さが感じられるのは悪くない。

      注)敗れた相手は長崎日大高校、これが甲子園で勝ち進み準決勝で佐賀北に敗れた。ご承知のとおりその佐賀北が2007年夏の優勝校であることを記しておこう。

 
          
 
その85 ボストリッジの言葉
 

無視できない存在となったイケメンリート歌手のイアン・ボストリッジ。時代が彼のようなタイプのリート歌手を求めていたのは間違いない。舞台上で11曲演じるように歌い、動き、時にはピアノの間奏でさえ芝居の動機にする徹底したステージである。そこに歌手と聴衆の交流はなく、ストイックに入り込んだアーティストとそれを心配げに、あるいは憧れて見つめるだけのファンがいる。たまに私のように二枚目に冷ややかな男も混じっているが。彼のヴォルフのCDを聴きながら、その書いたものを読み大変面白い部分をみつけた。「私がフーゴ・ヴォルフの音楽初体験したのは、子供のころにバーブラ・ストライサンドのアルバム『クラシカル・バーブラ』で「語らぬ愛」(アイヒェンドルフ歌曲集の中の1曲))を聴いたときだった。これは境界が取り除かれ、歌唱の様々な伝統が広まって相互に影響しあったことの一例である。1930年代のヴォルフの録音を聴くと、歌手の様々な歌唱スタイルや自由な感覚が聴こえてくる。これらこそ今私が追い求めているものである。解釈に自由な姿勢があれば、ポピュラー歌手からテクニックとは言わないがインスピレーションを得ることができる。ヴォルフの歌は言葉で音楽の調子が変化する。その逆もしかり。そうした術に偉大なポピュラー歌手たちは通じているのである。(と、ここでボブ・ディランやビリー・ホリデイの名前を追記している)彼が言うところの録音は私もレコードで持っている。1度くらいは聴いたが、ゲルハルト・ヒッシュが素晴らしく思えるほどに他の歌手が、いいかげんでいただけなかった記憶がある。そしてピアノが下手で、これは録音状況の悪さのせいとばかりはいえない。要するに伴奏の位置付けと意識の問題だ。ボストリッジはこのレコードから違うものを感じていたわけで、私と違い非凡な証拠でもある。彼の声は甘く美声だが、訓練されてないように聴こえる危なっかしい声は、好きにはなれない。(といっても「千の風」を嫌うのとは次元が違うけれど。)ただポピュラーの感覚で聴くと、隅々まで表情があり、興奮するのは否定できないのだ。彼の人気がその辺にあるのは確かで、ドイツでも評価は二分してると聞く。亡くなったリート伴奏者の木村潤二氏が「僕は歌謡曲の歌手でも上手いと思う人は好きで、よく聴きます」とおっしゃっていたが、私もそういう了見の音楽家でありたいと思う。中学生のころ(もっとも映画館に通ってた年齢だ)「ファニーガール」を観てバーバラ・ストライサンドの「ピープル」に感動したのを思い出した。同じ感動をリートのコンサートで味わいたいのは私だけではない