寛容さと愛情 | 犬と猫と三姉妹

寛容さと愛情

[俺とエフィーとは、ちぐはぐだった。そのちぐはぐなものを苛立ちに変えない手口は、ただ寛容を貫くことだけなのだ。

そんな場合、愛情はあまり役に立たない。けれども、寛容であるためには、愛情が必要だ。そして愛情を育てる方述として、人間の場合、言葉が不可欠だ。]


尊敬する 宮本輝先生「海辺の扉」から抜粋。

母国語の異なる恋人のやりとりの様子が描かれた箇所だが、

私自身 英語がメインの子供たちをもち 改めてこの箇所を読み返すと ずしんと 魂に響く。


例えば 私が

お母さん 髪の毛山姥みたいやから 先にシャワーして乾かす時間いるわぁ

と 言うと


ヤマンバ?何?

と 問いかけられ、

まるで 漫才で滑ってる 芸人の気持ちになる。

いくら 全体の意味がわかっても 山姥を理解できないとは、致命的なこと。


バス🚌時間ぎりぎりになって


あれ どこ?

さっきまであったのに ない


と 慌てふためく 娘たちの 朝の光景。


なんで、誰も触ってないのになくなるねん、新喜劇みたいなこと言うな、探して早く バス行きなさい!

と 私が つっこみをいれると


え?なに劇?

と またしても大事な箇所に理解がおよんでいない。


日常には、問題はないのだが、こういった瞬間が ちょいちょいあると、己の寛容さを試される。


関西育ちの私としては こういったユーモアが当たり前として 会話に滑り込んでいくのだ。


日本から駐在でやってきた 子供たちは しっかり ユーモアワードを ひらって 理解してくれる。


あぁ、、スムーズスムーズ と心が小躍りする。


幸い 自分の 娘たちなので 愛情の質は 恋人とは違い、どれだけ腹がたっても 無意識の領域で

愛は枯渇しない。



伴侶はどうだろか。

付き合うか否かの時は


伴侶からのメールが届くたびに うきうきしていたような記憶もある。


家族になる時も、お互い完璧に言葉の理解はしあえていないことが、当然だったので そこまで深刻さはなかったかもしれない。


伴侶とは もっと別の視点で 寛容さが必須だ。


それができたら 私は無の境地に達する気がする。













寛容を貫くとは、 無の境地かもしれない。





洗濯🧺に対して 異常な執着は毎日変わらない。