「東大卒なのになんでダンスのプロなんかになっちゃったの?(仮)」vol.4 | プロ社交ダンサーブログ@西荻窪

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サード・ダンススクール所属のプロダンサー・小野大輔のブログです。
社交ダンス教師・プロ競技ダンサーやってます。


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始まり(そして挫折)

 こうして僕は意気揚々とダンス部に入部しチャンピオンへの道を順調に歩み始めた、はずだった。

が、やはりというかなんというか、すぐに壁にぶち当たった。

僕は子供の頃から体が弱いのもあり体育が好きではなく、その結果運動神経が全くない人間に育っていた。

体力測定でなんとか人並みなのは50メートル走と垂直飛びくらいで、それ以外の項目はなんともひどいものだった。

握力は両方とも15、6キログラムで女子並み、ボール投げは7メートル程度しか飛ばず女子以下、柔軟性に至ってはあまりに曲がらないので呆れた測定の先生が「もういい」と問答無用でマイナス記録をつけてしまったくらいだ。

こんな状態の人間が受験勉強でさらに弱った存在、ドラクエならスライム以下。

それが大学入学時の僕であった。

一言で言えば、当時の僕は部活動をできる体ではなかった。

 

水面を優雅に泳ぐ白鳥は、その実水の下で両足を動かし続けているという。

その例えで言うなら、僕は水に入った途端に沈没していく醜いアヒルの子であった。

いや、アヒルでも泳ぐことはできるのだからアヒルの子ですらなかった。

 

 初めての夏合宿は僕にとって「これまでの人生で一番体力的に辛い」というレベルを遥かに超えていた。

サイド強化という、片手と両足で体を横にした状態のまま持ち上げる姿勢を続けるトレーニングがある。

パソドブレの音楽に合わせて「とーだい!」と叫び続ける新興宗教の儀式のような中毒性があるメニューだが、何回も続くと死ぬほど辛い。

そのため一部の部員には蛇蝎のごとく忌み嫌われており、僕もそのうちの一人だった。

叫び続けると喉も潰れてきて声が出なくなるが、そんな状態になると先輩たちから「声出せぇ!!」と鬼軍曹のごとき怒号が飛んでくる。

まさに行くも地獄、戻るも地獄。

にっちもさっちもいかなくなった僕の頭の中ではドラクエ3の大ボス・ゾーマとの戦闘曲である「勇者の挑戦」がエンドレスでひたすら流れ続けていた。

もう自分をゲームの勇者にでもなぞらえないとやってられなかったのだろう。

名曲なのでぜひ一度聞いてみてください。

 

 ボロボロ状態でなんとか合宿を乗り越えると、そんな僕にもカイワレダイコンの芽のような自信が芽生えつつあった。

当時の新入部員は合宿終了後から東京大学駒場キャンパス内の剣道場や女子大の体育館で自由練習が許された。

それまでは「変な癖がつくといけない」という理由で先輩の指導を伴わない自分たちだけでの練習は制限されていたのだが、それが一応解除されたということになる。

僕は下宿先が近かったのと他にやることが全くなかったのとで毎日のように剣道場や女子大の練習場に現れており、練習量は結構自信があった。

変な人ながらも練習を通じて同期の仲間とも多少は打ち解けてきており、「9月のデビュー戦ではみんなで決勝行こうぜ」などと盛り上がったりしていた。

「これだけやっているのだから負けるわけがない」という自負は、カイワレダイコンの芽をダイコンの苗くらいには育てていた。

 

 そんな僕のデビュー戦は2次予選で終わった。

前日までみっしり練習してからヘアセットに行き、当日は決勝に行く気満々だったがあっさりと落ちた。

この試合は主に関東地区の国公立大学が出場する「国公立戦」というカテゴリーで、この試合を皮切りに秋からの試合シーズンが始まる(開催は秋なのだが一応夏国公立戦と呼ぶ)。

その年のルーキーは誰かを占う意味でも重要であり、2次落ちは僕の実力がはっきり言ってかなり低いことを意味していた。

事実その後の成績は「だいたい2次、良くても3次」の低空飛行をキープすることになる。

一方で僕の目からは大して練習していなかったように見えた同期のAがクイックステップで決勝入りし、その後も東大のエースとして活躍していた。

「どうも自分にはダンスの才能がない」とこのとき気付かされた。

気がつけば、ダイコンの苗はぺしゃんこに潰されていた。

 

それでも練習量は多かった方だと思う。

というか、それしかなかったという方が適切だった。

才能がないのだからとにかく練習量だけは負けたくない、その一念だった。

ここでいくつかの転機があった。

まず、モダン(ボールルーム)をやるかラテンをやるかの選択。

学連のダンサーは2年生になる際、基本的にどちらかに種目を絞らなければならない。

僕の同期にはリーダーが13人おりそのうちラテン選択が9人だった。

ここでラテンを選んでも、まず最後の全日本選には出られない(一つの大学につき各種目1人しか出られないため、4人が出場枠。モダンと合わせても8人しか出られない)。

それに「変な人」の僕はあんまりラテンの先輩に歓迎されていなかった(モダンの先輩にも別に歓迎されてはいなかったが)。

最後の一押しとして、モダン新人戦という今はない試合後の打ち上げでジャッジをしていたOBの先輩Hさんが乾杯のとき「この試合でシニアに上がった人はモダンの才能があります」と挨拶したことが決め手になった。

本当に些細なことで専門を決めてしまったものだが、今考えるとこの選択は正解だったと思う。

とはいえ、専門に分岐した後も真面目に練習はしていたものの成績は全く鳴かず飛ばずだった。

そしてそのまま季節は巡って秋になり、第二の転機が訪れた。

モダン新人戦という試合で学連での初優勝を飾ったのだ。

種目はタンゴだった。

実を言えばこのとき出場していたモダン専攻の選手は3人のみであとは全員ラテン専攻の学生の中での優勝、という手放しでは喜べないものだったが、初めてのトロフィーがものすごく嬉しかったことを覚えている。

規模が小さいなりに「学生チャンピオン」という称号を得たわけだ。

このへんから、潰された芽が少しずつではあるが再び伸びだしてきた感覚があった。

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