二月は思い出深い月。
身近な人達が多く亡くなった月

義叔母のご主人(おじさん)は
21年前の二月四日に亡くなった。
前年、病気が再発して入院したおじさんは
翌年の手術が決まってお正月に一時帰宅した。
カニが食べたいというのでカニ鍋を用意した私。
美味しそうにカニを食べてたおじさん。
湿っぽい話はせず、みんなでワイワイと過ごしたお正月。
その後 入院して一月四日に手術を受けたおじさん。
長時間かかった術後に先生に呼ばれた夫と私は
「手術は成功しました。これが摘出した臓器です。」と見せられた。
思いの外、多い臓器に嫌な予感がした。
夫も同じ思いだったみたいで無言だった。

その手術は成功したはずだった。
そう、手術は成功したはずなのに
何故かおじさんは目覚めなかった。
集中治療室でいろんな器具を体につけて横たわり
植物人間みたいになってしまったおじさん

「耳は聞こえてますから出来るだけ話しかけてあげてください。」と看護婦さんに言われて
耳元で話しかけた。

あの時は集中治療室の面会時間は決められていて
午前と午後にそれぞれ一回10分しかなかった。
その面会時間に
叔母と交代で病院に通った私。
手を握り話しかけてもおじさんは何の反応もなく、叔母はだんだん元気が無くなった。

家には軽い痴呆のおばあちゃんがいてたので、
万が一の時に備え一時お世話してもらえる施設を探す決意をせざるを得なかった。
その頃は珍しかったショートステイの存在を知り、日曜日に夫と二人で下見に行った。
ここならという施設が見つかり
1週間、預かってくれるとの話で安心した。

それからもバスに一駅乗り叔母と交代で病院に行く毎日が続いた。
でも、私がお昼病院に行くと二階で一人になるおばあちゃんはますます変な行動を取るようになった。
留守が寂しくてかまって欲しかったのだろう。
いつもと違う家の雰囲気が不安だったのかもしれない。
夫が会社から帰ってくるとますます変になり
私達を困らすようなことばかりした。

おじさんの病院通い、痴呆のおばあちゃんの世話、家族とおばさんの食事支度と家事にも追われた私。
子供の幼稚園のお迎えに間に合わない時は
別の伯母に頼んだり、夫も家事を手伝ってくれたりとなんとか日々のやりくりが出来た。

そんな生活が続いてしばらくして、夫と私は先生に呼ばれた。
「機械で生かされてるだけで自発呼吸はしていません。いずれ機械を止める時のことを考えて下さい。」と言われた。

予想してた言葉。

事実だけを伯母に告げる夫。
子供がいなくて甥夫婦の私達と同居してた叔母は
可哀想に決断に苦しんだことだろう。
いつもの気丈な叔母ではなくなったのが哀れだった。

その頃になると、目覚めるかもしれないという期待はもう無くなり
目覚めたとしても82歳になってからのリハビリは大変で、その上 人工肛門の生活に耐えられるとは思えなかった。
このまま目覚めない方が幸せなのではないかと
みんなが思い始めるようになったけど
誰も口にする事はなかった。
叔母も決して決断しなかった。

決断できないままの日々が過ぎて
おばあちゃんは相変わらず かまって欲しくて
色々なことをますますするようになった。
そんなおばあちゃんに、とうとうあの夫が腹をたてて頭を叩いた事が一度だけあった。
私の目の前で。
世話をする私に対する気兼ねもあったのだろう。
夫は軽い痴呆になったおばあちゃんを受け入れられなかったのだろう。

夫もおばあちゃんも可哀想だった。
介護中に感じる様々な葛藤は
介護をしたことがない人にはわからない。

優しい人間が人の頭を叩くようになるのが、
優しい人が追い詰められて優しくなくなるのが
介護の現実なのだ。
きれいごとだけではすまされない。

病院のベッドで無言で横たわっているおじさんも決断出来ない叔母も
寂しさで痴呆がますます進むおばあちゃんも
夫もみんなが可哀想だった。
もちろん私も。

あの年の二月だけはいつまでたっても忘れることが出来ない。
みんなにとって辛い二月だった。

そんな毎日が続くうちにとうとう私の体が
動かなくなった。
私しか世話する人がいないのに、心まで動かなくなった。
子供達の世話、痴呆のおばあちゃんの世話、叔母の世話、おじさんの病院と重なり
私の限界を超えたのだ。

手術から一ヶ月が来ようとする日、
その日は叔母が病院に行く日だったけど私も
一緒に行った。
叔母には言わなかったけど何となく微かな予感がしたのだ。
私の予感通り、その日私達が病院に行くと
おじさんは亡くなった。

まだ面会時間には少し早かったので
二人で外のベンチに座って待ってたら
看護婦さんが
「すぐに来てください。」と慌てて呼びに来た。
集中治療室にすぐに駆け込んだ私。
おじさんは叔母と私の到着を待ってたかのように
すぐにそのまま亡くなった。

器具を外す辛い決断を叔母がする事なく
おじさん自らが生を終えたのだ。
前日に思った私の気持ちが通じたのかもしれない。
私は心の中で
「ありがとう。おじさん。叔母さんが辛い決断をしなくてすむように亡くなってくれて。
私の限界をわかったように亡くなってくれてありがとう。」と感謝した。

不謹慎な思いだけど、
人の死を願ってはいけない事だけど
私はおじさんが静かに自分で息を引き取ってくれた事に心から感謝した。
神様はやっぱりいてると思った。

9人いてたお年寄りの中で私と一番仲の良かったおじさんだったのだ。
年の差を超えて気さくにものが言えたおじさんだった。
そんなおじさんの死は
予想してたとはいえ寂しかった。

あの時、あの二月におじさんが静かに亡くなってくれたおかげで、私も叔母も夫もおばあちゃんも、周りの人も助かったのだ。
殊更さように、
人の死は、その人の死だけでなく
周りの人を巻き込む。
良いようになるのならいいけど、ならない時の方が多いのが人の死だ。

それにしても器具を外す決断は
年代、環境によって変わる。
おじさんは82歳だったから周りも納得できたけど、あれが幼子とか働き盛りの人間とかだったら
誰もが奇跡を信じて決断出来ないだろう。
難しい問題だと思う。

叔母は病院から帰るとそのまま寝込んでしまった。
無理もない。
子供もいなくて様々な思いを自分一人の胸に納めた一ヶ月は辛い日々だっただろう。

おばあちゃんは従兄妹のご主人の車でショートステイに連れて行ってもらった。

その後は
人の死を悲しむ余裕はなく、
ただただ、いつものように葬儀を行なった。
今までに何人ものお年寄りの葬儀を行なってきた夫と私。

手術して目覚める事なく一ヶ月で亡くなったおじさん。
おじさんの思い出は楽しい思い出が多い。
今でも、おじさんは目覚める事なく
あのまま静かに逝って良かった。と思う。


おじさんが亡くなって11年後、
叔母も二月に亡くなった。
おじさんは82歳。
叔母は84歳で亡くなった。

二月は亡くなった人が多い月。

私の義兄も二月に亡くなった。

夫の父も二月に亡くなった。

亡くなった人それぞれに人生があり
それぞれの人生から
いつもいろんな思いを新たにする私。



二月は思い出深い月。

*・゜゚・*:.。..。.:*・'*:.。. .。.:*・゜゚