20代。後編 | 奥浜レイラオフィシャルブログ「L→R」powered by Ameba

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20代。前編はこちらから


NHKの語学講座は私の努力不足で長く続けることが出来なかったけど、(毎月テストをして点数の悪かった生徒から落第というルールでやっていたのです)朝番組を始めて二年で、今の仕事の始まりとも言えるスペースシャワーTVの音楽番組に関わらせてもらうことになった。
音楽番組をやりたいというのは、事務所に入った当時からの私の強い希望だったので本当に嬉しかった。


子どもの時から父の影響で洋楽には触れていたし、純粋に好きだった。
10代の後半から、暇さえあればスペシャやMTVやM-ONのようなを音楽チャンネルを観ていた。
ロックも聴いてたけどこの頃特に好きだったのはクラブミュージックで、朝の番組に支障が出ない程度に週末はクラブに行ったり、エレグラや渚やBody&Soulなどのイベントに出かけるのが一番の息抜きだった。この頃はもう、IDが無いと入れないところも多くなっていたので、もちろん成人してからの趣味として。

とにかく音を浴びるのが気持ちよくて、夜中に行って朝方まで踊り続けるので疲れないようにと、ヒールを履くことも露出をしたり過度なオシャレをすることもなかった。
好んで行っていたクラブが出会い目的ではないところだったので、ナンパもほとんどされなかった。単身で行くことも多かったので、一人で踊りまくる私はきっと少し怖かったと思う。笑
その中で友達が出来たので、クラブはだんだん集う場所になっていった。

ただ、朝のイメージもあるので、そのことは表に出さないようにというのが事務所との約束。
もちろんクラブに行ったって何も悪いことなんてしていない。ただ、イメージに合わない。
でもスペシャの番組をやれば好きなことを公言しても怒られないし、この辺りから好きな音楽と仕事が繋がったらいいなと考えていたので、番組に決まったことで救われた気持ちもあった。もちろん頑張るのはそれから。
どっちも本当の自分なのに一方は隠さなければいけない。
でも、これはどちらも自分自身で選択して作り出したギャップだったから、今度は自分でそれを肯定できる場所を作らなくちゃ、と思った。


好きな物を好きだと言える環境は何とも清々しい。
この時も今も、それは強く思う。
でも“好き”をエネルギーしていたせいで、勉強不足だっだりムラがあったりスペシャのスタッフさんにはたくさん迷惑をかけたと思う。英語も下手だった。(今も決して上手ではないけど)しかも私は日本人だからと開き直り、あまり勉強していなかった。
本当にごめんなさい。
それでも育てて頂いてありがとうございます。
今こうして仕事を続けていることがひょっとしたら恩返しになるかもしれない、日本における洋楽シーンを良くしていきたいと思う気持ちはきっと同じなんじゃないかと勝手に思っています。
今でも取材の現場でその時のスタッフと会うことが多々あり、その度に身の引き締まる思いです。


朝の番組をやっていた時期は恋愛をする時間なんて無かった。
小さな恋心は幾度か通り過ぎたけど、休みがほとんどない中で相手を優先させるという気持ちを継続するのは難しかった。この時期は自分のことで精一杯だった。自分と仕事を一番大切にしなくちゃと思っていた。
二つのレギュラー番組で手いっぱいなんて、本当にキャパシティーが狭い。
もっと忙しくされている方には、本当に頭が下がります。


それでも朝のレギュラーが終わってからは、身を焦がすような恋愛をしていた。
もちろん仕事も続けたいが、相手が言うなら辞めても良いとさえ思った時期も短いけどあった。3年間の昼夜逆転生活の疲れから、そう思っただけかもしれない。
相手との将来のことを考えていたし、簡単に人に甘えられない、自分の弱いところを見せられないというプライドの高い私が、唯一の身を預けられる場所だった。頼りきっていた。
相手を大事にしていたつもりが、いつの間にか自分を甘やかす為の場所になっていた。
色んな問題から追われても、解決のための努力もろくにせず彼のところに逃げ込んでいた。
幻滅されていたことにも気づいていなかった。
その言葉の通り身も心も焦がして終わりを迎えた時、私はほんの燃えカスになっていた。
しかも長いこと彼に自分の存在価値を委ねていたため、自分一人では何の自信も持てなくなっていた。
人から見ればただの失恋。よくあること。
なのに、人格まで否定されたような気持ちになってボロボロだった。

私は一人になった。
どうしても一人で耐えられない日もある。でも相手の都合を気にして友達に電話も出来なかった。
何も知らない他人に相談した方が気が楽だと思った。
知っている友達だとプライドが邪魔をしてきっと正直に話せない。
弱くてだらしが無いのに、それを人に知られたくない。
自分一人では何も解決できなくて彼には全部ぶつけていたくせに、友人には小さな「助けて」も言えない。
でもそうやって、人にどう思われているかと戦うことにも疲れていた。

初めて、友人に泣いて電話をかけた。きっと言葉になっていなかったと思う。
何かを隠したり話さないでいることの方が苦しくなって、嘔吐をするように彼女には全部話した。
恥ずかしい話もした。吐かれた方は迷惑だったかもしれない。
でもそこから、彼女との関係も、友達との付き合い方も少しずつ変わったように思う。
後からかっこつけるのではなく、自分がなりたくない自分にはならなければいい。
嫌なものには嫌だと言う勇気。
道理を通すには嘘をついたり自分をごまかしたりせず真っ直ぐ生きること。
人との関わり方が変わって来た。丁寧でいたいと思うようになった。友人のお陰だと思っている。

わたしは友達に助けられている。20代の後半は特にそう。
たくさんではないけど何人かの弱さも汚さも見せられる友達に、心配してくれる家族に助けられている。

仕事に集中することで、徐々に自信も取り戻せている。
どんなに支えてもらっても、最後に歩を進めるのは自分。それでしか自分を作っていけない。
人のせいにしなくなった。小さな努力でも重ねれば高いところに届くと知った。



先日Twitterで「奥浜レイラみたいな仕事をしたい。」という呟きを見かけた。
嬉しい反面、”奥浜レイラみたいな職業”には名前が付いていないんだと複雑な気持ちになった。
奥浜レイラに肩書きをつけるのは難しいのかもしれない。自分でも時々考える。
それは私がもっと、何かの人になれた時に変わるんだろうか?つまり(簡単に言ってしまうと)もっと売れたら、誰かが勝手に私に肩書きを付けてくれるんだろうか?

奥浜レイラみたいな仕事は正直楽じゃない。
毎月満足に好きな仕事ができるという保証はないし、実際経済的にもグラグラしている。

それでも私が仕事を続けるのは、腹を括ったからだ。
ここで生きていこうって決めたから。まだまだ未熟でおこがましいけれど、こうなりたいと思う人がいる。尊敬する先輩方がしてきたことを繋げていきたい。
音楽に対してもそう。ここで語る人がいなくなったら、次の世代にこの素晴らしい音楽が知られることがないかもしれない。
好きで好きで、だけじゃどうしようもない。そんなことは大前提で、そこから先が厳しくて長く続けることも簡単じゃない。

キツい話ばかりしていると、そんなことなら辞めたら良いじゃないと言われるかもしれないし、リスナーさんを心配させてしまうかもしれないですね。笑
いや、基本的には楽しくてやっていて良かったと思う瞬間もたくさんあるんですよ。
リスナーさんからメールをもらった時、以前ご一緒したお仕事先から是非奥浜さんにと再び仕事をいただく時、良いインタビューが出来た時、ラジオで自分の言葉で話せた時、自分の書いた文章が雑誌に載った時、素晴らしいライブの後に番組スタッフとお酒を飲みながら話す時・・そういう瞬間が重なって、次に進むエネルギーになっています。


どんな20代でしたか?と聞かれても、「楽しかったです!」とは答えないかもしれない。
でもそれって皆そうでしょ。他の人の20代と比べたことが無いし、誰だって20代は一回きりで攻略の方法を知らなくて当然だから。
でももっとハードでヘビーなことなんてこの先たーんとあると思う。土台になるような踏み固めが出来ていたかが分かるのはきっと先の話。一生踏み固めて続けているだけかもしれないしね。

まだ30歳になったばかり。10個年下の妹には早くからおばちゃん扱いされてたし、きっと何も変わらないだろうな。仕事も自分自身もちょっとずつ深めていきたいと思います。

30代も末永くお付き合いよろしくお願いしますー!
お誕生日は深夜までお仕事。
ありがたい限りです。