弁護士 山村 力の徒然日記

弁護士 山村 力の徒然日記

兵庫県伊丹市の弁護士、山村力が日々感じることを宣伝がてら徒然書き連ねます。

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とっても久しぶりに更新。

これからは定期的に書き込んでいきたいものです。

 

ところで。

先日、「教育勅語」について、「憲法や教育基本法に反しない形」であれば教材としての使用を認めるという閣議決定が行われたことが報道されました。

たぶん、「教育勅語には、現代でも通用する内容、いわゆる『徳目』と呼ばれるものも記載されている」ということを根拠としての動きなんでしょうけど、そもそもどうなんでしょうね?

閣議決定で期待した効果はあるんでしょうか?

教育勅語に書かれた、いわゆる「徳目」と呼ばれるものを教えるとき、教育勅語を教材として使うことにどれほどの意味、価値があるのでしょうか?

 

自分も学校で法教育の講演をすることがたまにあります。

そのときは、講演の内容をどうするか、教材としてどのような内容を取り扱うかにはいつも頭を悩ませます。

悩むこと、考えることは以下の点。

子どもたちが興味を持てるテーマ、内容にすること。

子どもたちが身近に、自分のこととして考えられるような内容にすること。

取り上げる内容が子どもたちへの教育として最適なもの(素材)であること。

こういうものにならないと、少なくとも自分だったら、聞いても自分で考えず、頭に残らない、そして最高の教育的効果を上げられないと思うから。

そして、そうなるように考えに考え抜いても、手ごたえのある講演・授業は難しいというのが自分の実感(かつ実力)です。

 

なので、学校教育において、いわゆる「徳目」について説こうとするときには、子どもたちに身近な例、自分たちの実感として考えられることを素材として教える(一緒に学ぶ、考える)のが一番いいと思います。

「教育勅語にもこう書いてあるから大事なんだよ」って教えても、ピンと来ないんじゃないか?場合によっては、反感すら買うんじゃないか?って思うわけです。

それに家族のあり方、夫婦のあり方、親子のあり方、友情のあり方はいろいろあると思います。

それを十把一絡げにするような教え方はよくないでしょう。

 

もちろん、「教育勅語にはこう書いてあるけど、君たちはどう思う?」っていう教え方ならアリだとは思います。

ただ、こうなってくると、わざわざ教育勅語を持ち出す意味がない。

「(これこれの『徳目』について)君たちはどう思う?」くらいの質問で十分。

 

こう考えてくると、結局、「教育勅語」を教材として用いるのは、これにまつわる第二次世界大戦等につながる歴史的経緯、大日本帝国憲法と日本国憲法、国民主権の意義などを教える場合に限られるんじゃないでしょうか?

この場合に限って、教育勅語が教材として取り上げる最適な素材となるでしょう。