出典:漫画『SLAM DUNK』井上雄彦 第9巻より 

 

 お客様企業のベストスコア更新に寄り添う「経営キャディ」の猪子です。 

 何を投稿しようか考えたところ、たまたま私達は法律科目試験をパスした法律屋さんであり、かつ、たまたま憲法記念日だったということで、ベン図の重なり合うままに「憲法」及び「法律」についての話をしようかと思います。

 数ヶ月前に、愛知県は知多半島南端を周遊してきました。日間賀島の古き良き宿に宿泊後、常滑にて焼きものを物色し、西尾市の一色で鰻を食し帰宅するという1泊2日旅でした。

 メインイベントであった日間賀島紀行として、今回はそのノーヘル事情について法律学をしていきたい。

 例によってあらかじめ断りをいれると、ルポルタージュ的投稿をして島の現状を告発し、それを取り締まらない島における警察権力の腐敗までを追求せんとするような熱きジャーナリズムは残念ながら持ち合わせていません。

 事実として、島に上陸して驚くのが原チャリを移動手段とする島民の多さと、その運転者のノーヘル率の高さである。おそらく80パーセントを超えていたように思います。中でも、おそらく70代(ヘタすりゃ80代)のお婆様方がノーヘル2ケツで出動していくたくましい姿に度肝を抜かれました。
 

 さて我が国は法治国家であり、当然ながら日間賀島においても道路交通法は適用されます。
 具体的にいうと、同法第71条の4第2項には「原動機付自転車の運転者は、乗車用へルメットをかぶらないで原動機付自転車を運転してはならない。」と定められています。

 ここで、国民としては「原付き運転時にはヘルメットをかぶりなさい」という行動規範を与えられているのですが、このルールについてどのようスタンスを取るべきでしょうか。

 この点について、憲法学者の長谷部恭男教授の、原理・憲法・実定法に関する次の指摘は示唆に富むように思えます。
 

「「この状況で人として本来すべきことは何か」を最終的に判断するのは、いつも自分自身である。実定法の条文は、所詮、実践的な判断の補助手段である。物神として条文を崇め、自分の判断を放棄することは、人であることを放棄することである。」
「憲法も原理も、結局は理由によって支えられ、支えられる理由によって射程が限定される。いかなる法も憲法も原理は、人がいかに行動すべきかを究極的に決定するわけではない。決定するのは理由である。いかに行動すべきかの判断を実定法や憲法の規定に丸投げすることは、人であることを放棄することである。」
『長谷部恭男著 憲法学の虫眼鏡「その16 憲法よりも大切なもの」より抜粋』

 引用しておきながらもなるほど難解なので、そんなときはサブカルチャーに目を向けたい。

 つまり、漫画『スラムダンク』の「鉄男を鉄男たらしめているもの」である。
 

 また拡大解釈すれば、映画『戦場にかける橋』で捕虜となったニコルソン大佐の生き様が思い出される。
 「この状況で人として本来すべきことは何か」
 すなわち、大佐は、当初ジュネーブ条約を根拠に将校の捕虜としての労働従事を拒否しながら、共に捕虜となった部下たちを守る目的のもと積極的に敵国を利する架橋を手伝うようになる。そして、最終的には自らの存在意義の拠り所となった「橋」への自国の橋爆破作戦を妨害するに至るのである。

 余計にわからなくなったところで話を日間賀島に戻します。
 ほとんどの自由は、最小限度で制約されうる。これが日本国憲法のスタンスです。
 道路交通法上、ノーヘル運転の違反点数は1点である。そして、反則金は0円である。
 これが、ノーヘルに対する我が国の最小限度の制約である(これが軽いか重いかは個人の評価にゆだねられる)。


 この程度の制約である「理由」は、ノーヘル運転が自己加害的行為であり、かつ、依存性等とも無関係な行為であることなどでしょう。


 しかして、この制約と天秤にかけられる自由は「自己責任のもとヘルメットを外し風を感じて原チャリで走る自由」である。
 「島」というある意味でわかりやすい状況下で、自由を選択する余地を自分の中に残すことが自分を自分たらしめるのである。   

 場合によっては死ぬかもしれんけど。