結局、私にとって、浜崎あゆみの何がロックだったのかというと、
ロック幻想を打ち砕いた
ということなのだと思う。
それは「流行」ではなかったし、激しさの単位と化した「形式化」されたロックでもなかった。
ジャンルの壁を取り払うとかそういうことでもなくて、ただただロックだった。
それは恐らく、ロックと呼ばれる以前のロック。
そうして、私のロック幻想は打ち砕かれた。
CMJK氏がブログに書いていたことを思い出す。
テクノが世界中を席巻してた 1993年に、エレクトリック音楽の大家であるデペッシュ・モードが、ギターやピアノを前面に押し出し、生々しくエモーショナルな作品に仕上げた『ソングス・オブ・フェイス・アンド・デヴォーション』は時代に拮抗したアルバムであり、最先端のサウンドとオーガニックな要素を融合させ、モダンな作品に仕上げた 2013年の『デルタ・マシーン』は時代に祝福されたアルバムであると。
あゆはロックじゃなくなったのか――。
かつて「ロック」は時代に拮抗していたけれど、今は時代に祝福されたものなんじゃないか。
確かに、2000年の『Duty』が船出、はじめて作曲した「M」、2002年の『I am...』から『RAINBOW』くらいまでは、時代に拮抗してる音がする。
ザ・エイベックス!みたいなシャカシャカした音をやらなくてはいけないんじゃないか?という縛りから抜け出し、「浜崎あゆみなんてロックの敵!」みたいな空気を全身で受けて立ち、消費文化や商品でしかない自分に抗い、、、、、、。
でも今は違う。
「あゆはロックだ」と言っても誰も驚かない。
「あゆはロックだ」がロックじゃなくなってきた。
そういうわけで、私にとってあゆは、ロック幻想を打ち砕いた存在として「ロック」なのに、最近は「あゆはロックだ」とか「ロックじゃなくなった」とかいった声に「ロック幻想」を感じてしまうという、そういうことなんだと思う。
例えば、あゆを批判するときに(評価するときも?)、「音楽以外の話題」が多いこと。
詳しくは書かないけど、音楽そのものよりも、彼女が何を考えどう行動したかとか、彼女がどこで何を言ったとか言わないとか、どういう意志が込められてるかとか、取り組む姿勢だとか、何を誰をどうしたこうした、プライベートのことまで、彼女の行動ひとつひとつにイチイチ大層な意味が付いてくる感じがする。
ダンサーがどうとか、シングルを出すとか出さないとか、順位や売上がどうしたとか、一見、音楽と関係ありそうなことも、それもあくまで「周りの話」であって「中心の話」ではない気がする。
もちろん、そういうことも無関係ではないけど、あゆの場合、音楽以外の要素があまりに多いというか、音楽そのものよりも、意味だの姿勢だのばかりが取り沙汰されてる感じがする。
皆、あゆに何を求めているのだろう?
ロック幻想?
ただ、これは自分自身にも言えることで、そういったあゆの意味深いところが好きだったりもするわけで、何よりそういった意味づけをしているのは自分自身だったりもするわけで。だからこれは、自省なんです。
「感情より理屈を優先したらアカンよね。たいていの場合、感情は理屈より圧倒的に正しい」
こんな文章を読んだ。感情と理屈があったら、理屈の方がエラいという風潮は確かにある。「感情論で考えるべきではない」とかよく聞くものね。
私もこうして文章を書いてるわけだから、理屈で考えようとしているのだろう。しかし、上記の言葉に妙に納得してしまった。
音楽そのものよりも意味や姿勢を重んじること、この「感情より理屈を優先する」ことと似てないだろうか。
言ってしまえば、すぐ精神論に走るというか。
ロックかそうじゃないかにも似たところがあるかも知れない。
ファンがファンを盲目呼ばわりするところにも通じるものを感じる。
盲目も何も、好きだから好きってだけなのだと思うのだが。
盲目かそうじゃないかっていうのは、一体誰が何のために決めるのだろうか。
そうはいっても、あゆの音楽がその「理屈」を超えられないだけだと言われてしまえばそれまでだし、音楽よりも「音楽以外のところ」に魅力があるアーティストなのだと言われてしまえばそれまでだけど、私にとってはそうじゃなかったから。
浜崎あゆみは、ロックと呼ばれる以前のロックを鳴らし、ロック幻想を打ち砕いたアーティストだから。
ロック幻想を打ち砕いたあゆが、また新たなロック幻想を抱えてしまう。
でもそれは、そういうものなんだろうし、どちらもなくてはならないものなんだろう。感情も理屈も。
昔「あゆ」という曲を書いたバンドマンが、ローリング・ストーンズには、
奥が深そうなのに実は薄っぺらい感じ と
適当にやってるように見えて実は思慮深いところ
があって、そこに惚れると言っていた。
これなんだよ!!
薄っぺらいだけじゃない。思慮深いだけでもない。
感情と理屈どちらもで大きくなっていく。
エレカシは、「悪魔メフィスト」で自身のバンド幻想を崩壊させ、ひっくり返し、解放した。
そして、『MASTERPIECE』でその先の景色を見せてくれた。
あゆは今、自身にふくれ上がったロック幻想をひっくり返す時に来てるのかも知れない。
でも、そんなものは何度も訪れ、ひっくり返して来た。
己自身の化けの皮を剥がす。
何度も終わる機会はあった。でも、終わらなかった。
「天才とは、何遍でも死ねる人」