今日は成人の日。
長男の受験で埼玉に来ていますが、朝の電車は受験生親子と成人のお祝いをする若者でごった返していました。
待ち時間に読んでいた本にあった「謝罪するとは何をすることなのか」という話がとてもおもしろかったので、忘れないうちにここに残しておきたいと思います。
<謝罪が謝罪であるために必要な本質的な特徴。それは、「謝る」というのはまずもって、当該の出来事をいま自分がどういうものとして認識しているのかを表明することである、ということだ。(しかも、その際には暗に、当該の認識が、謝罪する相手や世間の認識とおおよそ合致していることが期待されているとも言える。)
(中略)
謝罪は多くの場合、自分が何をしたのかを説明し、それが悪いことだったと認める所作を行うだけで終わるのではなく、むしろそこから始まる。それだけで常に謝罪を謝罪として完成させるような、そうした魔法の言葉や態度などは存在しない。>
【子どもに対して謝罪とは何かを教えることとは】
たんに「ごめんなさい」と言わせることではなく、<自分が何をしてしまったのか>ということ、そして、<それをしてしまった者として、自分がこれから何をするのか>ということを、子どもが徐々にでも自分で表現できるように促し、また、大人もそれに応えることだと結論づけられるのではないか。
「いつもの言葉を哲学する」(古田徹也著)
「ごめん」
「ごめんなさい」
「申し訳ない」
本当に言葉としてはシンプルでよく口にも耳にもする。
でも、本質はその言葉そのままではなく、その先にあるもの。
そのコトをどう認識して、その先どうしようとしているのか。本当に確かになーっと思います。
日常的に使う言葉こそ、考えたいものです。
それって、何をすること?
っと。
三連休最終日。
よい午後をお過ごしくださいね!
ラサタ
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