大学時代からの友人M君参上。 | lai-thaiboxingのブログ

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タイチェンマイにて意拳、ムエタイ、瞑想の研究。山岳小数民族との交流や日々気づいた事を書いて行きます。
タイ国ムエタイ協会認定トレーナー。寺田式インパルス療法士。椅子軸法認定インストラクター。

東京からの空手家親子、かつての弟子親子に続いて、年末チェンマイに来てくれたのは、大学時代からの知り合いM君である。


彼は、学生時代に、正道会館の全日本空手道選手権の第一回と第二回大会に出場した猛者てある。


彼の所属していた道場は、顔面無しのフルコンタクト空手から始まり、当時始まった顔面にスーパーセーフと言う防具を付けてのノックアウトルールの空手、東孝氏率いる大道塾の格闘空手を始めていた。


道場の名を誠空会と言う。


彼は、誠空会の立ち上げメンバーとして、I師範と共に数名で、東北仙台にあった大道塾本部で合宿を行ったりしていた。


その後、誠空会は、スーパーセーフを付けてのノックアウトルールの独自の空手の大会を開くようになり、一時は、東の大道塾、西の誠空会と言われる事もあった。


彼との出会いは、大学1回生の時。

当時、自分は、大学の体育会の空手道部に所属していた。


大学の空手道部は、伝統空手、所謂、寸止めと言われた空手で、彼の行ったいた空手とは、全く異なるものだった。


空手道部の同回生に、フルコンタクト空手である芦原空手を高校生の時に稽古していた者がいて、伝統空手に疑問を呈していた。


自分も彼の話に賛同していた中、M君を中心に、フルコンタクト空手の同好会を大学で作る話があり、自分もそこに合流する事で話は進んでいた。


当時、まだ身体の出来ていない自分にとって、フルコンタクト空手の破壊力溢れる蹴りに魅力を感じており、前蹴りと直突き中心の大学の伝統空手に疑問を持っていた。


自分は、スポーツとしての空手よりも、単純に強さを求めていた。


数名いた同回生も同時にフルコンタクト空手の同好会に移籍する話が水面下で進んでいて、これは、大学空手道部からしたら、一種のクーデターであった。


が、


結局、同回生が、自分より先に部を辞めてしまい、残された自分は、当時のキャプテン、主将から説得された。


電話で1時間以上だったと思う。その先輩の格闘技に対する思いを聞いて、自分は、伝統空手の枠の中で強くなる道もあるのでは、と思い止まった。

この時の先輩との話が無ければ、自分は、今、格闘技に関わっていないかも知れない。


何故なら、フルコンタクト空手の同好会の方は、結局、成立しなかったから。


3回生になると、同回生がいなかったので、必然的に自分が主将になった。


同時に、世界大会に優勝した女子選手が入部して来た。


それまで、技を制約してしまう伝統空手のルールに余り乗り気で無かった自分は、


「なんや、この大学、女子は強いけど、男子は大した事ないな。」と言われるのが嫌で、伝統空手の試合に勝つ事に一生懸命になり、練習方法も変えて行った。


成果は出て、結果的に、当時稽古していた後輩から、ナショナルチーム3名、国体代表1名が出るようになり、伝統空手の中で、国公立の雄と言われるようになった。


が、


自分自身は、強さに対する思いは、大学を卒業してからも消える事は無く、韓国に渡ってのテコンドー修行に始まり、顔面無しのフルコンタクト空手、ポイント&ノックアウトの硬式空手、そして、ボクシング、日本拳法、ムエタイなどと様々な打撃系格闘技を行った。


その中で、対ムエタイ用の練習として、スーパーセーフを付けてのノックアウトルールの格闘空手の稽古も行った。


自宅の駐車場を改装して練習場を作り、中学校の体育館や会館を借りてムエタイのトレーニングを仲間を集って行っていた。


そこには、地元でやんちゃしている子や、日本拳法の全日本チャンピオンなども稽古に来ていて、彼らを連れてタイに遠征したりしていた。


又、シュートボクシングの世界チャンピオンで、現在チーム吉鷹代表の吉鷹弘さんや、全日本キックのチャンピオンだった小林聡さんも練習に来てくれた事もあった。


M君は、大学卒業後、一部上場企業に就職し、空手の大会に出る事はなくなったけど、格闘空手誠空会の師範として、空手の指導は続けていた。

また、誠空会の大会では、審判員をしていた。


誠空会が神戸ワールド記念ホールを会場にして大きな大会をする、ただ、他流に対して対抗出来る選手がいないので、誠空会大阪の選手として大会に出てくれないか、と誠空会のI代表から懇願された。

そして、出場。

結果は3位になった。


その後、プロの試合のオファーが入って来たが、自分は、公立の学校の先生をしていたので、公務員の規定でプロの試合に国内で出場する事は無かった。


その後、誠空会にムエタイクラスが出来、そこの一練習生として、ムエタイの指導に関わらせてもらい、シュートボクシングのランカーやK1やキックボクシングのリングに上がった選手の育成に関わった。


M君とは、巡り巡って、いつの間にか、ある意味同門になっていた。


誠空会のI代表の書かれた小説。この本で主人公のコーチ役のモデルとして自分は、登場している。



伝統空手と格闘空手・空道、いつの間にかこう言う時代が来た。


ムエタイを通じて、タイ🇹🇭と日本🇯🇵の交流はしていたが、それ以外でも、何か出来ないか、と考え、格闘関係以外の中学生を毎年20人、タイ北部チェンライの山岳少数民族の子供達との交流に連れて行った。


それを4年やった後、今度は、若手の先生の自主研修として、先生達とチェンライにある山岳少数民族の教育支援施設に一緒に行ったり、山岳少数民族の村にホームステイしたり、タイの学校を訪問して、タイの学校の先生とディスカッションしたりした。


先生を辞めて、チェンマイに拠点を移した後も、この自主研修を引き継いでくれる先生がいてくれ、先生以外のメンバーも募集した所、M君が参加してくれた。


その後、自主研修とは関係なく、年末年始にM君はチェンマイに来てくれるようになった。


北タイ一周バイクツーリングの旅や世界遺産スコータイへの旅等も行った。


が、


コロナによって、外国人が、タイ🇹🇭に簡単に来れなくなった。


M君は、コロナ後、久しぶりのタイ旅行になる。


自分は、チェンマイに来てくれる友人に、最近は、

「チェンマイで何がしたい?何かリクエストある?」と聞いている。


M君は、

「日本🇯🇵で体験出来ない事をしたい。今回、一応、国際免許をら取って来た。」と、言った。


日本🇯🇵で体験出来ない事?


どんな事を体験してもらおうか、と考えるのであった。



関西空港からベトジェトのチェンマイ直行便で到着。

先ずは、手延べ雲南ラーメンと黒餡の入った揚げパン。





完食。


体軸の調整。

上、調整前

下、調整後。



きゅうりのソムタム。


ビール🍺にソムタムタイ。




夜は、ローカル料理に舌鼓。