緑のコーラLanzamiento Coca-Cola Life | clandestina

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未知の世界へ 

8年ぶりの新商品は“緑のコーラ”

日本コカ・コーラは1月27日、ブランド戦略発表会を都内で開き、新商品「コカ・コーラ ライフ」を3月9日から日本で発売することを発表した。希望小売価格は1.5リットルのペットボトルが320円、500ミリリットルが140円、300ミリリットルが115円(いずれも税別)となっている。また、独自の形状をした“コンツアーボトル”導入から100周年を記念したキャンペーンやWebサイトでオリジナルポスターが作れるデジタルコンテンツ“Coke&Me”を展開していく。
2007年に日本で発売された「コカ・コーラ zero」以来8年ぶりの新商品となる「コカ・コーラ ライフ」は、2014年9月に英国で発売。既に米国、フランス、スウェーデン、アルゼンチン、メキシコなどで発売されているが、アジアでは日本が初となる。糖分・保存料・合成香料なしのzeroに対して、ライフは砂糖と植物由来のステビアを使用し、100ミリリットル当たり19キロカロリーに抑えることを実現。「コカ・コーラ」独特の甘みを保ちつつローカロリーなのが特徴で、35歳以上の層や健康志向の女性といったこれまで炭酸飲料を飲んでこなかった消費者への訴求を図っていくという。日本コカ・コーラのティム・ブレット社長は、ライフ投入にあたって「日本でのzeroの売り上げ」に着目した。世界で同商品の売り上げが高い日本は、消費者の健康志向が高いのではないか。そこでカロリーを抑えたライフの発売に踏み切った。また、3つのラインナップをそろえたことで「消費者のいろいろなニーズを満たすことができると確信している。炭酸飲料全体の市場拡大に貢献できる」と自信を見せた。戦略発表会では、1886年のジョージア州アトランタでの誕生から、1915年に暗やみでも触って分かるコンツアーボトルの採用といった歴史も振り返った。第二次大戦後の1949年には日本でもボトルの生産が開始されてから「日本で最も愛されている炭酸飲料。さまざまなイノベーションや広告展開がされてきているが、ボトルの形は変わっていない」(ブレット社長)ことを強調した。
コーラこれはどこの国に行ってもよく飲んでしまう
不思議な飲み物だ 無性に炭酸が飲みたくなる時がある エジプトや中南米のアタカマ砂漠のような乾燥地帯で飲むコーラはいまだに覚えているほど美味かった ペルーのインカコーラ 黄色のコーラで辛いペルー料理には口直しに飲んでいました どんな奥地や辺鄙なところでもコーラあった 中南米ではコーラは水替わりみたいなものだった

最初のアメリカ人はアジアから海を渡ってやって来た
アメリカ大陸へ最初に進出したのは、いったいどんな人々だったのだろうか。
古代アメリカ先住民の骨を見る限り、彼ら「最初のアメリカ人」はかなり荒っぽい人々だったらしい。男性の過半数は暴行による傷があり、頭部に骨折の痕があるものも多い。狩りや戦争による負傷というより、仲間同士の激しい争いが絶えなかったようだ。女性にはこうした傷はないが、骨格は男性に比べてはるかに小さく、栄養不良や、身近な男性から暴力を受けていた形跡がある。 2007年にメキシコで発見された巨大な水中洞窟からは、1万3000~1万2000年前の人骨が見つかり、顔面の復元やDNAの解析が行われた。その顔は現代のアメリカ先住民とはあまり似ていないが、遺伝子からは共通の祖先をもつことが判明。さらに2014年には別の骨からゲノム情報が解読され、最初のアメリカ人はアジアにルーツをもつことが確認された。チリの遺跡発見で覆された「通説」最初のアメリカ人に関する謎は、実は20世紀中にあらかた解明済みだと思われていた。米国ニューメキシコ州のクロービス近郊で1万3000年前の槍先が出土し、同様の石器が北米各地の数十カ所で次々に発見された。こうした証拠から、大型の獲物を追って移動する狩猟民がマンモスなどを追いながら、最終氷期には陸続きだったベーリング陸橋を渡ってアジアから北米大陸へ到達し、内陸に氷のないルートが開通した後に南下したと考えられたのだ。 この通説を覆したのが、1997年に南米チリのモンテベルデ遺跡で発掘調査を行った考古学者のチームだった。米国バンダービルト大学のトム・ディルヘイは、同地で1万4000年以上前に人類が居住していた証拠を発見したと発表。北米にクロービス文化が現れるより1000年も前ということになる。 だがそんな時期に、どうやってはるかチリまで到達できたのだろうか。一つの仮説は、海からのルートだ。米国カリフォルニア州のチャンネル諸島では、約1万2000年前、島の人々が海洋文化を発達させていたことを示す有力な証拠が見つかった。彼らの祖先はアジアを出発し、「ケルプ・ハイウェー」とでも言うべき海路を通って、おそらくベーリング陸橋での長い滞在を経て米大陸に来たのではないか。調査を進めるオレゴン大学のジョン・アーランドソンは、そう考えている。ケルプ・ハイウェーというのはコンブなどの海藻が密生し、魚や海生哺乳類が豊富な生態系が連なる海域のことだ。「3万年前から2万5000年前の日本には、舟を操る海洋民がいたことがわかっています。そうした集団が環太平洋地域を北上し、米大陸に来たのかもしれないと考えるのは、理にかなった推論でしょう」ナショナル ジオグラフィック

麻薬積んだ無人機が墜落、密輸の可能性 メキシコ

3キロの合成麻薬を積んでいた小型無人機が、米カリフォルニア州(California)との国境に近いメキシコ北部の都市ティフアナ(Tijuana)のショッピングセンターに墜落した。遠隔操作されていたとみられる無人機は21日、積んでいた荷物の重さに耐えられずに墜落したとされている。警察によれば、機体には小包が6つ、テープでとめられていた。ティフアナ警察は地元メディアに対し、ショッピングセンターの従業員が駐車場で無人機を発見したと述べた。連邦当局は無人機と薬物を押収したが、逮捕者はまだ出てない。メキシコの麻薬密輸業者たちはこれまでにも、国境の下を通るトンネルや小型潜水艦など、米国内に麻薬を密輸するために想像力に富んだ方法を考え出してきた。(c)AFP
ロスでは街中やレストランで何度か売人に声をかけられた 結構しつこかったですね
逆に中南米では売人といわれる連中には声もかけられたことはなかった

統治者と非統治者の非対称 『ラテンアメリカ 越境する美術』岡田裕成著
1492年のコロンブスのアメリカ大陸発見、スペインによるラテンアメリカ(ラ米)の植民地化について知らない者はいない。が、コロンブス以降500年余の歴史、茫漠(ぼうばく)とした広大な土地を持つラ米諸国のあれこれを子細にうかがい知ることは中々(なかなか)に難しい。美術(史)では、昨年亡くなられた加藤薫による『ラテンアメリカ美術史』にとどまるだろう。著者は、まず、イスパノアメリカ副王領(メキシコなどパナマ以北の中米)、ペルー副王領(南太平洋・大西洋沿い)に分けたスペイン統治領の「時・空間」を巨視的に見わたす。メキシコのアステカ文化やクスコのペルーのインカ文化の制圧後、先住民やクリオーリョ(ラ米に定住したスペイン系の人々)が、ヨーロッパ文化への拒絶と受容に葛藤しつつ、新たな社会、文化、表現を創造することを、筆者は「異文化交渉のダイナミズム」とする。美術的には「征服後」「植民地期」「独立後」の各時期に宗教画、風俗画、歴史画などが隆盛し、その他にも都市計画、建築、彫刻などにもさまざまな特徴が立ち現れる。その際、ある作品はスペイン人(国)への報告として、ある作品は先住民の教化のためと、多くの作品が統治者と非統治者の非対称なまなざしを意識して制作されたことに、ラ米美術の特徴が指摘されている。本書は図版も多彩かつ豊富で、著者が撮影した教会の建築写真など、大いに目を楽しませる。とりわけ印象に残るのは、西欧のキリスト教的様式から逸脱し、ラ米の土着的表現と習合した『ポマダの聖母』(1730年頃、リマ)のような作品だろう。個人的には、「土着的信仰がキリスト教に習合された」と思えていた「黒く」「稚拙な」グアダルーペ聖母像が、スペイン西南部のキリスト教寺院の木彫の「黒い」「グアダルーペの聖母」を起源とするという説の紹介が興味深かった。ならば「キリスト教の聖母が土着的信仰に習合された」ようにも考えられ、先住民信仰のしたたかさを改めて確認したのである。(筑摩書房・2700円+税)

ベネズエラ大統領、南米前大統領らをクーデター支持で糾弾

ベネズエラの首都カラカス(Caracas)で、ニコラス・マドゥロ(Nicolas Maduro)大統領が南米の前大統領3人を非難した。マドゥロ大統領は、メキシコのフェリペ・カルデロン(Felipe Calderon)、コロンビアのアンドレス・パストラナ(Andres Pastrana)、チリのセバスティアン・ピニェラ(Sebastian Pinera)3前大統領が同地での右翼グループのフォーラムに参加することは、野党派のクーデターを支持するものだとして、これを糾弾した。(c)AFP

米国 人権と自由を提起/キューバ 内政不干渉を要求

中南米歓迎 “体制の相互尊重”の指摘も
交渉について、米メディアは、両国の意見が対立したことを紹介しつつ「歴史的な協議の始まりだ」(ワシントン・ポスト紙)と伝えました。議会では「協議を始めてもキューバで報道の自由や政党活動の自由は実現できない」(ルビオ上院議員、共和)として交渉自体に反発する声も少なくありません。
新たな関係
一方、中南米関係者は協議を歓迎しています。メキシコのミード外相は「両国の対話はメキシコがずっと願ってきたものだ」と強調。イベロアメリカ会議のイグレシアス前事務局長(ウルグアイ元外相)は23日、「歴史的な対話だ。反米主義を弱め、中南米全体と米国の協力の新しい関係をつくるだろう」と述べました。協議後の会見でジェイコブソン米国務次官補(西半球担当)は、両国には「50年以上の信頼に基づかない関係」があると述べました。しかし両国間の問題はもともとキューバの体制転換を狙って米国が一方的につくりだしたものです。中南米の共同テレビ網テレスルはその歴史を踏まえて、今後必要なのは「政治、経済、社会体制の相互尊重に基づく接近」だと指摘しました。米国側は協議でキューバ国内の人権状況や言論の自由の問題を提起。ジェイコブソン氏は23日、ハバナで反体制派のキューバ人と会見し、「人権問題が米国の政策の中心であることは間違いない。この問題でキューバ政府に意見を表明し続ける」と述べました。一方、キューバ外務省のビダル米国担当局長は協議で「対話は国の独立や自決権を傷つけることなく、主権の相互尊重に基づかなければならない」と指摘し、内政不干渉と米国による経済封鎖の解除を要求しました。また「不当にテロ支援国家に指定されているなかで外交関係の再開を説明するのは困難だ」として指定解除を求めました。

アギーレ監督強弁
日本は死んでいない! 日本代表のハビエル・アギーレ監督(56)が、八百長疑惑やアジア杯早期敗退を吹き飛ばすかのような強いメッセージを口にした。アジア杯準々決勝で敗れた日本代表は25日、成田空港着の航空機で帰国した。スペインでは八百長疑惑による告発状が受理と報道されている問題で、仮に受理が確認された場合、アギーレ監督は本格的な捜査対象となる。そんな状況の中で指揮官は「日本がこれで死んだと思われてはいけない。今後もしっかり戦っていく」と宣言した。八百長疑惑も、アジア杯早期敗退も、全く気にするそぶりを見せなかった。それどころか、むしろ強気にさえ思えた。アギーレ監督は「日本がこれで死んだと思われてはいけない。しっかり生きているし、今後もしっかり戦います。これからもチームを成長させ続けたい」と宣言した。当然、結果には満足していない。だが「結果に対し、悲しみを感じている。決勝まで進み勝つことを目指していた。このチームは4試合とも相手を上回っていたが、不運にも(準々決勝UAE戦で)PK戦で負けた。この戦い方を続ければ、勝利が敗戦より多くなる」と自信さえ示した。八百長疑惑の告発状がバレンシア裁判所にいつ受理されるか分からない状況。結果も出せなかったが、日本協会の大仁会長は「今のままだと」という条件付きの続投を明言。指揮官も「大仁会長の支持の言葉に感謝したい。サッカーをご存じの方は、(アジア杯の)4試合を通じて見てくれている」と言い切った。近日中に休暇のために息子たちが暮らすスペイン、メキシコに戻る予定。常に告発状受理、そして本格的な捜査開始という状況に陥る可能性を秘める。そうなれば日本協会も対応に動くが、アギーレ監督自身は「まだ私にも私の弁護士にも正式なものは届いていない。正式な通達があれば(顧問弁護士との話し合いを)行うが、メディアに出ている現状だけでは私の方から動く必要はない」と泰然自若としている。
6月に始まる18年W杯ロシア大会アジア1次予選に向け、3月下旬には親善試合2試合を控える。「今季のJリーグも始まるし、若い選手も呼んでチームをリフレッシュしていきたい。4月の組み合わせ抽選の結果を見て、6月からの予選をしっかり戦っていきたい」と、今後のチームづくりのイメージも明かした。UAE戦敗退後、選手にも強いメッセージを送った。「このチームは機能している。それに対して誇りを感じている。この試合を続けていけば、負けより勝ちが多くなる。この敗戦からみんなが学び、しっかり将来に向けて進んでいこう」。自身の状況は流動的だが、その言葉には不思議なほどの、確信めいた思いが込められていた。Nikkan Sports
死んではいないがゾンビ状態

人質問題は海外で働いている日本人が狙われるものだが
自らのこのこと出かけて行き捕まるとは
危険体験をしたがりわざわざ危険な所に行きたがる
旅行者のようなよな感覚としか思えない

移住した日本人ならば誘拐されても日本政府など助けもしませんけどね
もちろんこんなデモもこの方たちはしませんよね

1985年にレバノンで起きたソ連外交官誘拐事件
事件解決のためにKGBが使った凄い手段とは1985年9月にレバノンでヒズボラによってソ連外交官4名が誘拐されるという事件が起きた。ヒズボラはソ連外交官4名と引き換えにソ連に拘束されている捕虜の釈放を要求してきたが事件はその後、膠着状態に陥ったことで、進展を求めたヒズボラは人質の一人を殺害した。ところが、ソ連は同胞が殺害されたことを知ると、却って態度を硬化し、改めて強硬な手段で事件の解決を目指すこととなったのである。そして、それを任されたのがKGBとなる。事件の解決を任されたKGBは、ヒズボラと交渉などはせず、ソ連外交官の誘拐を行った犯人グループのリーダーを特定し、そのリーダーの甥を誘拐した。その甥と引き換えに外交官の解放を求めたと考えるかもしれないがそうではない。
KGBはヒズボラのリーダーの甥を誘拐すると、その甥の体の器官の一部を切断し、その切断した体の一部をヒズボラの送ることで、外交官の即時解放を要求したのだという。そして、親戚の体の一部を送り付けられたヒズボラは、KGBの手口に恐怖し、直ぐに外交官を解放。しかし、これで終わったわけではないのである。KGBは外交官が解放されたことを確認すると、誘拐したヒズボラの幹部の甥は解放せずに殺害したのだという(それもヒズボラが殺害した外交官の殺害方法と同じ手口で)。ヒズボラは誘拐したソ連外交官の内、一名を殺害しており、ソ連も一名も殺害しなければバランスが取れないというのがKGBの論理なのだという。