こんにちは。

 

今日はLAにある「ギャンブルハウス」について

少し詳しく書きます。

長いですがどうぞお付き合い下さい。

 

アメリカ企業で世界中で目にする「P&G」カンパニー。

プロクター(P)&ギャンブル(G)の略です。

 

これはウィリアム プロクターとジェームス ギャンブルによって

オハイオ州シンシナティで設立されました。

 

イギリス生まれでキャンドルを作っていた「プロクター」(1801-1884)

アイルランド生まれのソープを作っていた「ギャンブル」(1803-1891)

 

この2人の奥さんは姉妹、彼女達の父親(ノリス)が提案し共同パートナーとして

プロクター&ギャンブルを作りました。

 

南北戦争中にキャンドルとソープを北軍に提供する事で

会社の成功は確実になり

会社の名前がアメリカ中で知られるようになったのは

今でも売っている「アイボリー石鹸」です。

マーケットで見かけます。

アメリカに住み始めた頃は、私は安い様々な石鹸の中でもこれがお気に入りでした。

私の中では「アメリカ!」を感じる石鹸です。

家族経営だったP&G。

2代目メンバーだったのが

ジェームスギャンブル10人の子供のうち6番目の

デビッド ベリー ギャンブル(1847-1923)でした。

デビッドは17才から石鹸メーカーとして働き始めます。

1895年に現役を引退。(取締役には名前を残す)

 

左から息子のセシル・シドニー・クラレンス

デビッドとメアリー夫妻(写真はギャンブルハウスに展示されています)

 

1900年、オハイオに住むデビッドギャンブルは

パサデナのホテルへ度々やってきて

暖かい気候を気に入り

リゾート地として過ごしていたそうです。

「雨と曇りの日は1年で45日」と当時の記録に記されています。

 

当時パサデナは湿った暗い冬から逃げてくる東部や中西部の裕福層達の

「遊び場」でした。

セオドアルーズベルトやアンドリューカーネギーもそれで

何ヶ月もパサデナの高級ホテルに宿泊していたそうです。

そして「絵」の様に美しい渓谷と川床があるパサデナに

2エーカーの土地を買い、1908年に家を建てます。

それが今もあるギャンブルハウスです。

パサデナは当時、すでに日本のアートが多くありました。

ジョージターナーマーシュの日本の茶室や庭園

アジアからの輸入品を専門とする多くの店

地元のアーティストToshio Aoki(青木敏夫)

日本のアート・建築・ランドスケープに溢れていたそうです。

 

ギャンブルは1903年、サンフランシスコからアジアの旅に出かけます。

その頃、子供であるクラレンスは「Aoki」に会っていたそうですよ。

そして大きくアジアの影響を受けたギャンブル。

1908年に建築家グリーン&グリーンによって家が完成します。

 

当時の富豪はきらびやかで派手な家を好んでいました。

この家は機能性を考え木をふんだんに使い

発想豊かにデザインされ

1つ1つが芸術品のように感じられます。

それでは入りましょう。

1時間のツアーに参加しました。

中の写真撮影はOK(可能)です。

 

手前の絨毯は「オリジナル」だそうです。

100年以上たつのに立派に保たれていますね。

 

中から見るティファニーのステンドグラスがとても豪華。

松の木が描かれています。

松の木ですが葉は「イチョウの葉」なんだそうです。

ここは是非生で見て頂きたい。

 

そして「3」という数字がとても好きなんだそうです。

ギャンブルハウスの建物はすべて「3」で作られています。

部屋にある窓の数

柱の数

何かある時は「3」を基本デザインに取り入れている。

 

3という数字は割り切れない一番小さな数字。

つまり「強い」のです。

 

 

釘を使わず木材を組み合わせる日本古来の建築方式です。

 

日本っぽい作りが至るところにあり

ガイドが説明する中でも何度もジャパニーズスタイルという言葉が出てきました。

日本の建築を沢山取り入れているとのこと。

穴と穴を接合させる組み立て方はある程度の動きを可能にして

地震による被害を防ぐことも考えられているとか。

 

あちこちに日本っぽさといいますかアジアを感じます。

 

それでは写真をどんどん載せていきましょう。

1階のリビングから。

 

家にマッチした素敵なピアノもありました。

 

木が贅沢に使われており

暖かくそして涼しくもあり、落ち着きます。

 

 

 

こちらはガイドさん。

ツアーは9人でまわりました。

写真撮影にも協力的で

物凄く充実し、あっという間の1時間でした。

 

キッチン

 

当時はまだ冷蔵庫がなく

氷をデリバリーしてもらい

地下に貯蔵庫があったそうです。

氷といっても当時は中々手に入らないもの。

 

冷蔵庫の歴史はアメリカで1918年から。

日本は1923年です。まだ100年ほどなんですね。

 

 

 

ベッドルームです

 

 

 

アイボリーの当時の石鹸もありました。

 

2階のベッドルーム

 

 

 

こちらはお母様(奥様)メリーさんの部屋

ご本人の写真が飾られています。

メリーさんのベッドはシンシナティから運ばれてきました。

きっとお気に入りだったのでしょう。

 

 

庭には池があり

蓮の花が咲いていました。

 

 

 

ギャンブルハウスがある場所は

サンガブリエル山脈の麓でアエロセコを見下ろす地形のために

「リトルスイス」と呼ばれていました。

 

建築家グリーン&グリーンはこの土地に1906年までに数十軒の家を建てたそうです。

まわりに似た様な家を感じるのはそれらなのかもしれません。

 

外のパティオ

 

「バンガロー」と呼ばれる彼らの作品は

イギリス植民地時代のインドで建てられた建築に由来しています。

完全に換気された屋根のスペースや風通りの良さ。

控えめでしっかりとした作り。

 

どこの部屋からも風が通り、太陽の方向や風の流れを考え窓やドアの位置が作られています。

 

自然と家が一体化している作りも日本を意識して作られているそうです。

テラスから美しい庭が一望できます。

 

1908年当時、建築費用は約50000ドルかかったそうです。

家具など総額は70000ドル以上。

当時の1軒屋平均価格は2000ドルほどだったそうです。

 

1908年は明治41年。

この年調べますと、日本は米国への新規移民を禁止する約束をしています。

(日米紳士協約締結)

 

フォードモデルTが完成販売の年。↓

 

ちなみにこのギャンブルさん

奥様に電気自動車を購入しここで所有していました。

現在ブックストアになっているこちらが

車庫だったそうですよ。

 

第一回日米野球が開催された年でもあります。

戦争前は日米多くの交流がありました。

 

1944年、セシルギャンブルは家を売る事を考えましたが

購入希望の人は家を真っ白に塗ろうとしている事を知り

 

売るのをやめ、考えを変えたそうです。

 

ギャンブルは芸術的重要性を考えて

1966年まで家に残り

その後はパサデナ市と南カリフォルニア建築学部に

この家を譲度する事にしたのでした。

現在はパサデナ市の保護の元

南カリフォルニア大学(USC)建築家の学生が2人

地下に住んでいます。(そういうプログラムがあるそうです)

 

そんなギャンブルハウス。

中を見学するにはツアーを申し込む必要があります。

 

こちらから↓毎日やっていませんので要確認。

 

そして最後に。

このギャンブルハウスは

バックトゥザフューチャーの「ドクの家」として

映画の撮影に使われています。

 

 

家の中でも撮影されており

この映画ですっかり観光名所にもなってしまいました。

 

ギャンブルハウスでした。

 

最後まで読んで頂きありがとうございました。

 

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