ちらとカレンダーに目を遣る数も多くなるような気がして、そうなると自然、この頃の節気に敏感になり、夏至にはじまり秋分まで、暦のうえに暮らすようになる、と言って大仰でない。実際の気候の変化を疑ったりもして。一種の逃避。だけれども、いい加減なようにみえる暦というものも、馬鹿にはできない。
 夏至から小暑、大暑、立秋を迎えて、風の立ち方にも変化を感じ、空には、岩のような夏雲の上方に刷毛で掃いたような秋の雲を確認できたりする。変わらぬどころか峠を迎えた暑さのなかでも、「秋来ぬと目にはさやかに見えねども――」の心持ちでいれば、少しずつでも、秋の色づきを感じ始めることができる。

 それでも随分、夏にも慣れてきた。学生時分ならいざ知らず、最近では、夏のどんどん苦手になっていくのを感じていた。要は、活動的でなくなった。いつか、夏の太陽に生命力さえ奪われるのではないかとの危惧も抱いた。夏の楽しみを失って、ただ汗掻くことを厭うようになったのかもしれない。
 それがどうだろう、この頃では、夏の不快感というものをさほど感じない。感じないでいて(それは不感症に近い)、夏を短く感じるようになった。
 思い当たる節はいくつかあれど、この心地は、幼き頃の落し物が目の前ずーっと先まで現れ、それを拾って歩いていくような、なにかを取り戻していく感覚に似ている。
 それらを拾い集めているうちに、きっと秋が訪れる。

 短き夏の、永く思えた季節が過ぎ去った。

古書市の成果

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 思わせぶりなことをしてしまった挙句、後が続かない、というようなことはよくあるもので、それが小さな苦しみの種となって、まあ、苦しみの花を咲かせるのならまだしも、諦めの気持ちが芽吹いて、花も咲かないうちから萎れてしまっているようでは、もう何も、落ち着くことなど望むべくもない。
 それならいっそ、すべてを放り投げ、走り出してしまおうかとも思われるのだけれど、本人は苦り切った顔して、裏庭で、何咲かせるかもわからない種を、蒔き続けているのである。

 この前置きは余談です。しかし、特に本題というものがこれから始まるわけでもない。そこは、期待しないでよろしい。
 前回の、古書市に行ったという話の続きを、どうしたものかと、あのまま書いてしまえばよかったものを、放っておくから、もうどうにも書く機会を失って、でも、何か書いておかなければと、よせばいいものを、惰性で書いてしまおうというのです。
 古書漁りに没入した日のことを思い出しながら、惰性で書く、ということを、惰性であるから早々に切り上げたいと思います。


 毎度、特に気構えというものもなければ、目星などもつけてはいない。行き当たりばったりである。でも、それでいいと思っている。そうして後になって、後悔することも無きにしも非ずではあるけれども、それも、そういうものだと思っている。

 と、言っているわりには、会場内に足を踏み入れるや、いの一番にカゴを掴み、四十もの店舗を丹念に見て回ろうとする。
 完全に舞い上がっていた。そうして、半分も見て回らないうちに、ひどく疲れてしまった。草臥れてしまった。
 カゴにすでに入れてあった、幾冊かの本を、元あったところに戻して、それでも一冊だけを手に残したまま、とりあえず会計し、もう、それで満足してしまった。腹も減っていたのである。
 その時にすでに、二時間ほど古書漁りをしていたのだけれど、腹ごしらえして戻ってきて、また一、二時間、残りの半分を見て回って、もうこの時には、ほとんど何も見ていやしない、たまに棚の中から抜き取って、パラパラと捲ってみたり、思案顔して棚から棚へと移っていくものの、何も探しやしない、ただひどく、疲れていた。草臥れてしまっていた。

 ただ一冊、買ったものはといえば、木村善之著『西行』である。
 函から出した本の装丁は、山の辺をゆく、馬に乗った西行の墨絵であり、なかなか気に入った。二千円であった。ちなみに、この著者は、物書きではないらしいが、詳しいことは知らない。

みどりの日の古書市へ

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 晴れた。みどりの日。
 こんなにも春らしい陽気を特に望んだというわけでもないのだけれど、むしろ雨であってもなんら構わないのだけれど、しかし、とにかく晴れた。ほんの数日前まで燻っていたような寒さも今はもうその気色さえ残していず、目の前を覆うはただ新緑の季節。暦というものの確かな不思議さを今年もぼんやりと味わいながら、晴れて良かった、と思う。

「晴れた」というより心情は、「明(開)けた」のほうが相応しかったかもしれない。密かに大きな楽しみは、「明けて」やってくる。京都で年に三回、季節を替え、場所を替え催されるこの大きな古書市は、その密かに大きな楽しみ、大仰に言えば、季節が変わる(明ける)合図だと思っている。桜の咲くのを見て春を感じる人があれば、新緑の息吹に気が付いて春を感じる人もいる。僕の場合には、古書市に参加してはじめて春を感じる。そういうものになっている。

 さて、京都勧業館(みやこめっせ)に、今年も『春の古書大即売会』に足を運ぶ。
 それにしても、ふと、昨年のことが思い出されて、昨年はこどもの日に来たのだったけれど、こんなにも人出が多かったかと、最寄駅の東山駅に降り立った時から違和感のように感じていた。もちろん、皆がここを目的とするわけではなく、平安神宮もあれば美術館などもあり、京都会館だってある。ここみやこめっせでも、毎年この古書市と日程が被って『刀剣即売会』なるものが開催されている。それでも、昨年以上に感じる人の多さ・・・・・・。

 昨年の反省も踏まえて午前中には家を出て、お昼頃には会場に着いた。昨年は小一時間程しか時間を割けず、半分も見て回れないうちに閉館となってしまった(なぜ時間に余裕がなかったのかが思い出せない。ただ、現地に着いてまず喫茶処で憩っていたのは確かだ)。
 それでも、いい加減に見て回った割に、それなりの収穫はあった。(昨年の『古書大即売会』→http://ameblo.jp/la-boba7131/entry-10527269562.html)
 今回は同じ轍を踏まぬよう、時間に余裕を持ってきたのだったが、やはりまず喫茶処でコーヒーフロートを飲んでから古書漁りに没頭したかった。しかし、店の前には人だかり、これではコーヒーフロートは諦めざるを得ない。特に喉が渇いていたわけでも、歩き疲れて休みたかったわけでもないのだけれど、これは一種の習慣のようなものであり、あとは験を担ぐという意味合いもあるのだった。
 結局、コーヒーフロートに未練は残しても、昼ご飯を後回しにしたまま、会場に入ることにする。
 オレンジ色の晴れマークが続いている。かと思いきや、夕方の時間帯に雨のマークがひとつ。それは、前夜に確認していた。それでも、試合開始時刻は13時で、遅くとも15時には競技場を後にするのだから、折り畳み傘一本あれば、事足りると考えていた。
 これが、純粋なサポーター(ホームゲームには毎試合駆けつけるというような)なら、いつもの用意されたバッグの中に、サンガポンチョが入っているだろう。もしくは熱狂的なサポーターなら、雨が降ろうが矢が降ってこようが、構わずユニフォーム姿のままで、声を振り絞り飛び跳ねているはずだ。
「合羽を買おう」と言い出したのは、相方だ。市バスを経由するため降りた四条大宮で、腹ごしらえの前に百円均一で合羽を買おうと言う。僕は「お好きにどうぞ」と、まあ、「要らないからやめなさい」とは強く言えなかったわけだ。フラグは立っていたのかもしれない。

 競技場周辺は、晴れやかに賑わっていた。雨なんて降るわけないじゃないか。雲行きなど気にも掛けず、そういえば西京極前のバス停に降り立った時に雨がパラついていたことも忘れ、場内に踏み入る。まだ空きの目立つホーム自由席で適当な席を見つけ、試合開始を待つ。
 試合開始まで20分を切ったあたりだろうか、無視していた頭上の曇り空が徐々にその範囲を広げ、やがて雲の切れ間も見えなくなって曇天、終いには雨がポツポツと降りだした。風も強く吹きはじめ、雨は降ったり止んだりを繰り返した後に、間断なく、強く、襲ってくることになる。と、次の瞬間には雷鳴が轟く。場内アナウンスが入った。
「雷が発生しており、安全確保のため、試合開始時刻を遅らせます」

 結局、試合は30分遅れで開始された。選手が入場し、会場内全体での黙祷が執り行われる頃には、空には太陽と青空、灰色の空は嘘のように消えていた。僕の背中とお尻と足に冷たく重い不快感を残して。
 当然のようにして隣では、なんの被害も受けていないと見受けられる相方が平然としている。まるで「雨なんてお手のものよ」とでも言いたげな横顔。「素敵な雨だったわね」(そんな喋り方はしない)なんて言い出しかねない。
 僕は、不当にも相方を恨めしく思いながら、やはり女性の忠告は聞くに限る、と思い直した。周囲に目を向ければ、同じく雨に打たれながらもまったく苦にせず声を張り上げているサポーターがいて、僕は、どちらをともなく、考え込むようにしてそれを羨んで眺めていた。

ふりだしに戻る

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 久しぶりに面と向かってブログを書いてみようと試みたところ、えらく長い文章になってしまい、しかもそれがどうも些か半生記の様相を呈してきたので、それはまあ特に消去するでもなく保存はしてあるのだけれど、そんなものを、書くだけならまだ良いとしても、ブログに載せるなんていうのは、いかにも趣味が悪すぎる。

 というわけで、粗相する一歩手前で、ふりだしに戻ってきた。