平家物語延慶本に記述のある、『猫間中納言』藤原光隆卿の屋敷所在地を手掛かりに、埋もれて消えた地名”猫間”を突き止めてみようという、物好きな特集の続きです。
前回は、”猫間”が現在の地名でいうと『京都市下京区 七条壬生(壬生川)通』付近らしい、ということがわかりました。
『平家物語延慶本』の記述をそのまま当てはめて仮定すれば、この交差点が”猫間”の南東端ということになります。
(下記地図の右下側の青矢印が撮影方向)
平安京における貴族の邸宅は、天皇家の離宮や藤原摂関家の邸宅など一部を除き、概ね”方一町”(ほういっちょう)という、街路に囲まれた一辺120m四方の土地を一区画とした規模のものだったようです。これを当時の場所で当てはめてみると、(南:七条大路、東:壬生大路、北:北小路、西:坊城小路)で囲まれた区画になるはずです。
(上記地図の赤囲み範囲)
そこで今度は想定した区画の北西角にあたる、坊城通北小路の交差点から南東方向を撮りました。
(上記地図の 中央部分の青矢印)
”猫間”を示すような痕跡は、特に見当たりません。街角にお地蔵様の祠が建つ、ごく普通の住宅街といった地域です。
お地蔵様のすぐ横の町内掲示板には、町名が書いてあって、『下京区坊城通北小路夷馬場町』と、京都の市街地ではお馴染みの、通り名表示+町名が表示されています。
しかし”坊城”も”北小路”も、平安時代以来の街路名が、1,000年以上そのまま受け継がれているというのは、さすが京都という感じですね。
肝心の”猫間”については、このエリアを歩き回っても残念ながら手掛かり無しでした。ただ、夷馬場町という町名は何か手掛かりを暗示しているかも知れません。
前回も少し触れましたが、『平家物語延慶本』の記述を元にしたと思われる、吉川英治の『新平家物語』では、猫間の地名について”七条坊門の壬生大路”と書かれています。坊城を坊門としているのは、間違えてなのか、敢えてそうしたかは不明ですが、”七条坊門(小路)壬生大路”とは、現在でいう『正面通壬生』にあたり、北小路通りのすぐ北側が、正面通(=七条坊門小路)になります。
そこで、少し範囲を広げて、北側にある島原新地(西新屋敷町)に向かってみます。
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(さらに続きます(^-^;)