舞鶴~綾部 日帰り紀行(2) | 知は力!痴は活力?

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 前回からの続きです。
 金剛院から来た道を戻って、東舞鶴市街ヘと引き返します。
 来たときとは逆に、下り一方のダウンヒルコースが続きます。

   ペダルに殆ど力を入れて漕がなくても、軽快に進んでいきます。
 金剛院の由来にまつわる「なんで?」が次々と浮かんできます。
 …なぜ平安時代末の院政期に白河上皇や美福門院は、復興や伽藍整備に力を入れたのか。美福門院に至っては、近くの松尾寺にも関わっているのです。
 なぜ時の権力者から尊崇を集めたのか。都から離れた「僻遠の地」です。さらに寺院の普請ともなれば、先立つモノが必要なのは、今も昔も変わりません。
 おそらくは、「荘園開発」が関わっているのは確かでしょう。
 この付近には「志楽庄」という荘園がかつて存在し、(「志楽小学校」「志楽郵便局」に名をとどめる)鳥羽院の時代、一時期は、平忠盛が領主だったということです。
 また現地の地形を見ると、今は田園が広がっている場所は、往時は入江が深く入り込んでいたのではと思わせます。



 もともと舞鶴は、日本海側では珍しい入江状の地形から「天然の良港」とされ、近代には東舞鶴が軍港として、また戦後は西舞鶴が日本海航路やロシア貿易の拠点として、発展してきました。
 築港技術が未熟な中世以前なら尚更、港湾に適した地形が重視されたと考えるのが、妥当な気がします。

 平忠盛自身が、瀬戸内海での海賊討伐をきっかけに、九州太宰府や大陸との私貿易で財を為しました。
 これは後に息子の清盛が兵庫津(大輪田泊)を開いて日宋貿易を活発化を通じて、平氏政権の財政基盤とした、そういった平氏一門の栄華に至る、先駆けを成したといえます。

 舞鶴(志楽庄)を足がかりに奥州、或いは太宰府を経ずに朝鮮半島や大陸との交易を目論んでいた…?

 まぁ想像は次々と出てきますが。あながち全くの的外れとも言えないのではと、仁和寺は思うのですが、どうでしょうか?


 さて東舞鶴市街地には、あちらこちらに軍港として発展してきた名残があります。


 お気づきでしょうか?




 『橋立』『厳島』『出雲』これらは全て、旧海軍の艦名を通りの名に冠しています。かつての鎮守府のお膝元ならではですね。


 そのほか、軍港としての繁栄した名残はこんな所にも。


 旧国鉄中舞鶴線の跡地が、遊歩道として残されています。
 大きな半径のカーブが線路跡を彷彿とさせます。



 特に「北吸トンネル」では、坑口部分の煉瓦が、現役時代8そのままの美しさで保存されています。



 現在もなお、海上自衛隊の基地としてですが、かつての軍港機能は、その地位と重要性に変わり無いといえます。


 さて、日帰り旅行であり、舞鶴で結構時間が過ぎてしまいましたが、再び舞鶴線に揺られて、東舞鶴から3駅先にある「梅迫駅」で下車します。



 綾部市と舞鶴市の境界近くにあり、山間の小さな無人駅です。

 ここから徒歩15分ほどの所にあるのが、安国寺さんです。

 ここは、室町幕府初代将軍 足利尊氏の出生地として知られる
臨済宗の古刹です。でもほとんどの皆さんは、安国寺と聞くと、こちらを思い出されるのではないでしょうか(笑)







 実際には閑静なお寺さんで、訪れた時は夕方近くで自分以外に訪問者は誰もいませんでした。



 もともと、梅迫駅から安国寺さんとは逆方向(北側)に上杉という集落があり、足利尊氏の母親が上杉氏出身で、発祥地がまさに綾部市上杉ということです。
 
 門前には「尊氏公 産湯の井戸」まであります。






もうすっかり夕方になってしまい、帰りにカミさんの実家(福知山市内)に立ち寄り、野菜や新米などを頂いて、さらに夕食までお世話になってしまい、たくさんの荷物とともに帰路につきました。