「シナリオ」誌(1985年5月号)に掲載された『黒地の絵』の第3稿


 拙著「清張映画にかけた男たち~『張込み』から『砂の器』へ」(新潮社刊)の最終章で、私は「小倉事件」の顛末を詳しく描いている。


事件は1950年7月11日、朝鮮戦争が始まった直後、「城野キャンプ」と呼ばれていた米兵の駐屯基地で起きた。約250名の黒人兵が、自動小銃や手榴弾をもって、兵舎を脱走。闇の小倉の街に散って、集団暴行、傷害、強盗、窃盗事件を引き起こしたのだ。


 この事件は、まだ日本がGHQの支配下にあった時代の話で、ほとんど報道されず、闇に葬られようとしていた。しかしすぐ近くに住んでいた松本清張は、8年後に、小説「黒地の絵」を書いて、この事件を世に知らしめた。

 

 発表以来、黒澤明、森谷司郎、堀川弘通など、多くの監督が映画化を熱望した。しかし会社からOKが出たことは一度もなかった。なぜか?


 それは、この映画が朝鮮戦争を扱った映画であり、政治的には反戦的、反米的ととらえられるからだ。また清張は、この事件が祇園祭りの日に起こったことに着目し、打ち鳴らされる太鼓の音を聞いて、黒人兵たちはアフリカの原始の血を呼び起こし、犯罪に走ったという設定にしている。しかしこれは、黒人をステレオタイプ化していると見なされて、人種差別の問題にふれてくる。


大手の会社で無理ならと、清張は「黒地の絵」の映画化を自ら実践しようと試みた。「張込み」と「砂の器」を監督した野村芳太郎と共に、「霧プロダクション」を設立して、映画化に邁進する。佐賀市出身のシナリオ・ライター古田求と井手雅人に、第3稿まで書かせた。特に第3稿は、井手の傑作だと思う。しかし踏めば破裂する地雷のような危険な代物が故に、結局、映画化は頓挫し、幻のシナリオになってしまった。


私は熊井啓監督ならできると願っていたが、彼が死去した今、日本で映画化は不可能だろうと思った。しかし最近、イラク戦争を扱った「アメリカン・スナイパー」を見て、考え直した。クリント・イーストウッドなら監督してくれるのではないか。彼は、戦争や人種差別に関しては、大きな関心を抱き、「硫黄島からの手紙」や「グラン・トリノ」などの名作をものにしている。また日本に対しての興味も深い。


映画製作の速さ、レベルの高さ、年齢の高さからみても、彼にとっては、もう怖い物なしの状況ではないか? 「好奇心をもつ題材なら、すぐさま映画化したい」と発言しており、彼のもとには、いろいろなシナリオが送られて来るという。


イーストウッドに映画化させるには、まず井手の書いたシナリオを翻訳しなければならない。誰か、翻訳をしてくれる人はいないものか?