加山雄三さんがコンサート活動を今年9月のコンサートを最後に、引退されるそうな⁈
まだ歌える内に「引く」という、この方の美学かな?
実は私がアナウンサーを引退しようと決意したのは、ラジオニュースの泊まり勤務をしていて、明け方、確か5時のニュースを読んでいた瞬間だった。
朝5時のニュースは、前日ニュースからの継続と、朝入ってきた新鮮なニュースが重なって
どっさりある。
読んでも読んでも原稿が減らない。
なんだか自分が、トーキングマシンになったような、嫌な気持ちになることがある。その朝もそうだった⁈
そうした狭間(はざま)で、ふと頭に浮かんだのが
『引退』という二(ふた)文字。
実は50を過ぎた頃から、選挙の開票速報の最中に
頭が真っ白になって、アドリブで開票速報をドライブするのが僕の『売り』だったのに、このままではスタッフのみんなに迷惑をかけるどころか、NHKの報道をミスリードする恐怖感に苛まれていた。そろそろ引き時かなと思うことも幾度かあったのだ。
その頃週一で週刊ニュースやりながら、随時NHKスペシャルキャスター。選挙が有れば、開票速報のメーンキャスターと、絶好調!
僕が辞めたいと言ったら、ある人は、あなたどこか悪いのか?病気か?と聞かれたりした。
やめる理由がないというのが、周囲の大勢。
それでも、引退したかった。
もしくは、
アナウンサーではない仕事をしたかったのだ。
2002年 12月、ベテランの会長秘書の女性から私のもとに電話がかかってきた。
「海老澤会長が話をしたいと仰っているので急ぎ会長室へおいで下さい。」というのだ。
一介のアナウンサーにNHKの会長が個別に話をすることなど異例である。
なんだろう?何かお叱りを受けるのかな、と訝しんで22階の会長室へ駆けつけると海老澤会長は開口一番
「アナウンサーを辞めたいといっているそうじゃないか?どうした?」
実はその年秋のアナウンス室長との話し合いのなかで、
「50を超えた今、このまま現役のアナウンサーを続けるより、これまでとは違う、NHKの経営に関わる仕事をさせてもらえないか。」
とお願いしていたのだ。
東京のアナウンス室には100人のアナウンサーがいるが、このうち、アナウンス室長、次長、統括担当部長、何人かのデスクと呼ばれる副部長は、「話す」アナウンサーではなく、行政職と呼ばれる、言わば官僚集団で、全国の拠点と呼ばれる大きな局に配置された統括担当部長とともに、アナウンサー集団の指導的役割を果たしていた。
実は私の頭の中には、こうしたアナウンサーの行政職への転身があったのだが、
「専門職として功成り名を遂げた人間には行政職は無理だ。」というより『やらせたくない』という考え方が当時あったと聞いていた。
私の願いは、そうした雰囲気への挑戦であった。
当時のアナウンス室長は、どうやら困り果てて海老澤会長に相談したらしい。これを聞いた会長は、本人と直接話をしたいと、私を会長室へお呼びになったのだ。海老澤会長は、「こういう話には、裏がある場合もある。アナウンサー集団の中に君を追い落とそうとしている奴がいるのではないか」と心配され直接私を呼んだのだと話された。
私は
「会長、そうではなく、私も50歳を超えてこのまま専門職を全うするのではなく、行政職としてNHKの経営に直接関わる仕事をしたい。ということです。」
と申し上げた。
こういう場合の海老澤さんの判断は早い。
「よしわかった。どういう仕事がいいか少し考えさせてくれ。地方に出てもいいか?」と言われるので「もちろんですよ。私の望む仕事をさせて貰えるなら東京にいることにはこだわりません。」とお答えした。
それから一ヶ月、再び会長室に呼ばれた私に海老澤会長は「地方の局長に出てもらう。場所は何処か希望はあるか?」と。私は、「生まれ育った京都か、NHKスペシャルや選挙の応援、2000年サミットで行った沖縄が希望です。」と即座に答えたが、まだ50になったばかりなので流石に「局長」は予想していなかった。
まさか、リソース集団と言われ、経営に直接関与することの少ないアナウンサーの私が局長にして貰えるとは思ってもいなかったのだ。
会長はこれまた即座に、「京都は10年早い。あそこは、協会生活最後の段階の人が行くところだ。君はまだ若いから、局長を終えてから本部でリーダーの一人として仕事をして貰おうと思うから、沖縄がいいだろう。」と。
というわけで
アナウンサー引退、局長として沖縄に赴任することになったのだった。
現役最後の日の番組『NHK週刊ニュース』
翌日那覇へ旅立った。
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