今回はニュース7のキャスター時代私がどのように仕事をしていたかについて書きます。




1993(平成5)45日、57分という大型のニュース番組「NHKニュース」はスタートした!キャスターは私と、同期の桜井洋子アナ。スポーツは小平桂子アネット嬢。気象キャスターは気象協会の 高田斎さんという万全の布陣でのスタートであった。新番組「ニュース7」のキャッチフレーズは「ニュースをわかりやすくしました!」というものだった。とにかく徹底的に「噛み砕く」「わかりやすく説明する。」というコンセプトで、当初の「売り」として今ニュースの核心にいる人物に果敢にインタビューするということにした。


あまりテレビに登場しない人物にも果敢にチャレンジしてみようとというものだった。このインタビューで最も印象的だったのは、政界のご意見番と言われていた「後藤田正晴氏」へのインタビューだった。

「ニュース7」がスタートした平成5年は、自民党最後の総理大臣宮澤喜一氏が政治改革を迫られていた時期なのだ。そして挙句、後に「嘘つき解散」と呼ばれる55年体制の崩壊につながる解散が断行された年でもある。こうした混沌状況の中で「政界ご意見番」は何を言うのかという大きな興味があった。その、後藤田さんが「ニュース7」に登場したことは当時の政治状況の中では極めて大きな意味があったと思う。

 

7時のニュースの時代もそうであったが、

「ニュース7」は、昼のニュース放送終了後の反省会から始まる。ニュースセンターの大部屋に円陣を組んで編集責任者  キャスター、各取材部デスクが集まり、まず昼の総括を行い、最後にこの後の出稿予定を各部から報告させ、ニュース7の編責(編集責任者)が、夜の方針を開陳する。これがNHKの夜のニュースのスタートなのだ。キャスターはその日の編責の方針に従って直ちに準備に入る。とりあえずは、各部から出ている取材予定の内容の確認と関連する情報の収集にあたる。ニュースセンターに配備された端末を操作することでそのニュースの過去の原稿を見ることも出来る。NHKの原稿だけではない。共同通信他通信社の原稿も報道端末で見ることができる。

もちろん海外の通信社ののが原文もすぐさまみられるのだ。何よりも取材部がNCスタジオに隣接しているから、各部のデスクや専門記者から直接、これまでの経緯や予備情報のレクチャーを受けることも極めて容易である。そうこうしている間に新たな事件事故が発生し、その「新ネタ」のウォッチもしながらの作業になる。放送直前までほとんど休みなく、「勉強」や「情報収集」を続けて行くのだ。情報の洪水の中で泳ぎ回るこうした作業は極めて大きな精神疲労を伴う仕事であることをご理解いただけるだろうか!とにかく疲れるのだ。

アンカーパーソンに必要なのは何よりもこうした情報に晒される「疲労」に耐えられる、強い精神力だと思う。そういう作業を重ねながらそのニュースを自分の「肉体化」するというのが正直な感じなのだ。そこまでしないと、日々刻々変わるニュースを自分の肉体を通して「伝える」ことなんか出来やしない、というのが、その当時の私のアンカーとしての実感だった!もちろんその前提としてキャスターになる前の自らの取材体験という「基礎」がないと何の意味もないのだが。幸い私自身は特報部兼務時代も含めて「現場経験」には十分な自信を持っていたし、何よりもニュース7のスタッフの多くがそのことを認識してくれていたと思う。


因みに、私の後輩で前「ニュース7」キャスターの武田真一君なんか、毎日、本番までの時間は「聞き回り」「調べ回って」いる。

本番で、整然と書かれた「原稿」をスラスラ「読んでいる」としか理解されないことが、この、アンカーという仕事の不幸な側面だ。アンカーパーソンは、森羅万象を扱うニュースの達人として「知らないことはない。」というのが前提になっているから、いつも「自分の知らないことが起きたらどうしようか。」という恐怖に晒されている。だから「学習」する。山のように読書する。正直言えば、現役だったあの頃ほど本を読んだことはなかった、と思う。恐怖に駆られて読書していたから、読書の楽しみなんか全くなかった!

こうした日々の「蓄積」の結果として、ひとたび「突発ニュース」が入ってくれば、直ちにスタジオに飛び込んで、ほとんど原稿もないまま、いわば、アドリブでニュースを転がしていけるのだ。

こうして、短時間に知識を詰め込むやり方でなんとかしのいでいるうちに、どんな問題についても、3日あれば、その問題の「専門家」になれるという、妙な「自信」も出来てくるから不思議だ。こうなると、傲慢としか言いようがない。そんなことで、ジャーナリスティックな伝え手になれるとも思えないのだが、その頃はそう思い込んでいた。今振り返ってみれば、「ジャーナリストたらん」という「謙虚さ」が足りなかった気がする。「謙虚」に人に会い、丁寧な取材を続けることでしか、ジャーナリストとしての道はないという姿勢が必要だったと反省している。