皆さんこんばんわ!

テルテルです。


若旦那の京都案内「京都御所編」応援下さりありがとうございます!

先輩方から褒めてくださったのですごく励みになりました。自称褒められると伸びる子なんで、更に取材行って参りました!

と言うわけでvol.4「東本願寺編」前篇お楽しみください。


-概略

東本願寺(正式名称:真宗本廟 しんしゅうほんびょう)
通称 お東さん
宗派 真宗大谷派
寺格 本山

-アクセス
京都駅正面口(烏丸)から北へ徒歩5分
市バス 烏丸七条下車すぐ

3月から10月  5時50分開門17時30分閉門
11月から2月  6時20分開門16時30分閉門

-拝観のポイント

拝観料 特になし

御影堂(ごえいどう)

さて、東本願寺さんは浄土真宗の真宗大谷派本山と言うことですが、同じような既にここから私も混乱するくらいややこしいのですが、お付き合い下さい。

浄土真宗の開祖、親鸞聖人(しんらんしょうにん 開祖聖人と呼ばれる)が大谷の地に眠り、その後ご遺骨は吉水の北に移され親鸞さんの末娘、覚信尼さんが留守職として門弟達から預かった大谷廟堂、真宗本廟が起源です。

その後、13世紀に亀山天皇から久遠実成阿弥陀本願寺という寺号を下賜され「本願寺」となった(とされる)のですが、このあたりから戦国時代までの経緯は天台宗からの弾圧や東国の門徒や門弟達のいざこざ、教団拠点の移転等等があって、かなり複雑です。
その中でも親鸞の血脈は途絶えることなく続いています。
兎にも角にも、時代を経て一時は消えかかったはずの本願寺は教団を形成し、強大化することとなります。戦国時代真っ只中にあって第11世門首顕如上人(けんにょ)の代には大坂(大阪)に一大拠点「石山本願寺(石山御坊・大坂本願寺)」があり、地方では大名も凌ぐ力を持っており、教団を弾圧する織田信長等に対しては一向一揆をしかけたりと一大勢力でした。また朝廷に工作、法相、天台、真言の寺以外ではまずあり得ない門跡寺院となったのもこの頃です。

織田信長が石山本願寺を包囲し約10年も攻め落とせなかった程の力を持っていましたが、遂には勅命講和を受ける。

顕如上人は、石山本願寺を退去。しかし、嫡子で新門(しんもん 教団後継者)の教如上人(きょうにょ)は徹底抗戦を唱え、そのまま石山本願寺に再度立て籠もるが、数ヶ月後に孤立無援となり講和を受け入れ石山本願寺を退去する。その直後石山本願寺は炎上、三日三晩燃え続けたと伝わる。

顕如上人は徹底抗戦を貫いた教如を義絶。三男の准如上人(じゅんにょ)を新門にした。これにより教如派と准如(顕如)派が分裂。信長亡き後、天下を治めた豊臣秀吉の寄進により准如が西本願寺(本願寺 真宗本願寺派)を、後に教如は徳川家康により現在の東本願寺の土地を寄進され東本願寺をそれぞれに建てました。

なので教如の東本願寺というのは准如の本願寺の東側に建てられた為に東本願寺、それに対して西本願寺と呼ばれるようになったのが始まりです。

東西、多少は念仏や仏壇、お焼香の仕方等に違いがあり、とても面白いです。

親鸞の血脈の西本願寺の門主、東本願寺門首はそれぞれ大谷家を名乗り、伯爵に列し皇族や公家・華族との縁組を経ている。

実は東本願寺ではこっからまた昭和に「お東騒動」があり分裂して更に更にややこしいことになるのですが、説明しませんw


「本願寺」はすごい歴史と、1000万以上の信者の門徒さんがあるので分裂や似た名前のせいでややこしく、何が正しいのかも判別不能なほどですが、お東さんもお西さんも京都人に、日本人全てに愛され素晴らしい歴史と文化、伝統を現代に伝えられています。

東本願寺は何度も火事で焼け「火だし本願寺」なんてジョークもあります。
しかし、現在見られる明治に再建された堂宇もでづが、何度も再建や大修理を経て今に残っています。

京都タワーお東さんのローソクと言われたりしていますね。


また、東本願寺の前の烏丸通りが大きくうねってロータリー状になっている場所はちょっとした公園になっており、今の時期は黄金色の木々が綺麗で噴水もあります。また、今後市と共に緑地公園化するとの報道も最近ありました。




これでもかなり説明省きましたが、長々とお付き合い頂きありがとうございます。
これが東本願寺の成り立ちのあらすじです。

次回は実際に内部をご紹介致します!

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