『歴史への招待15』(1981)では講談社の『定本講談名作全集』をもとに、『水戸黄門漫遊記』がどう創作されていったかを説明している。

「奥州の巻」
最初に出たのが文化・文政で「奥州の巻」が出た。
光圀が儒者・水鏡(すいきょう<*~きゃう)老人を名乗り、俳諧師・松雪庵元起(しょうせつあんげんき)とともに旅立つ。白河を過ぎた岩沼(宮城)では光圀が米俵に腰掛けて、そこのお婆さんにたたかれる話があった。これはナショナル劇場でもドラマ化されていたと思う。第11部第5話「黄門様を叱った娘(山形・新庄)」だろうか?
その後、先代を通って盛岡で南部家の立て直し。
次に光圀と俳諧師は越後高田に行き、俳諧師が実は、お取りつぶしになった高田藩24万石を再考すべく努力している山田左膳光起だった。これはナショナル劇場では『水戸黄門』第4部の設定とそっくりである。
越後高田藩は越後騒動で天領になったが数年後に再興され、光圀隠居時代は稲葉正往が藩主だったはずだ。
講談では光圀は高田藩再興を約して中仙道を通って江戸に戻った。

「東海道の巻」
ここで助さんと格さんが登場。助さんは佐々介三郎をモデルにした佐々木助三郎。格さんは安積覚兵衛をモデルにした渥美格之進だが、『歴史への招待15』では「渥美格之丞」となっている。
第43部は当初、東日本大震災の応援で、東北を舞台にする予定だったが、それでは露骨すぎるということで、東海道を西に行く旅に変更されたらしい(第43部開始直前の毎日新聞電子版)。
講談では光圀が天神林の隠居・光右衛門を名乗り、神戸の湊川(みなとがわ)に着いて大楠公の碑を建立。
Y!Japan 湊川 水戸黄門

「史実」では光圀は熱海から西に行ってはいないので、神戸を訪れているはずがなく、実際は佐々介三郎が立ち会ったらしい。
Y!Japan 湊川 介三郎

その後、講談では「中仙道の巻」「四国の巻」「九州の巻」「北海道の巻」まで作られたらしい。

生類憐みの令(講談『水戸黄門漫遊記』)
『歴史への招待15』によると、講談『水戸黄門漫遊記』で書かれた「犬の皮」の逸話は以下のとおりである。
神田の橋本町に万吉という25歳の魚屋がいた。赤い大きな犬が大事な鯛をくわえて行こうとしたので、万吉が犬を包丁の背で打つつもりが刃で打ってしまい、犬は死んでしまった。万吉は奉行所に捕えられる。光圀は小石川の藩邸に入り、登城して綱吉に犬の皮30枚を献上。綱吉は「水府には狂気いたしたか」と絶句すると、光圀は「近頃犬を殺す者は死罪とか承る。日本開けて今日に至るまで、未だ曽てかかる暴令を定めたるを聞かず、犬を以て人命よりも尊しとは笑うに絶えざること」と諫言。綱吉は憐みの令を廃止したことになっている。
しかし、実際に憐みの令が廃止されたのは光圀死去後9年、1709年に綱吉が没してからで、光圀が推していた甲府宰相こと家宣が憐みの令を廃止した。
なお、この講談の話はナショナル劇場では第2部の最終回「お犬さま罷り通る」とそっくりである。助三郎(演:杉良太郎)が魚屋と一緒に投獄されている。ドラマでは犬の皮は1枚くらいで、普通の毛皮のようであった。
実際の光圀は水戸藩主時代の末期に、肥前鍋島家の分家で小城藩主・鍋島元武に宛てたてがみで「自分は鳥を盗んだ張本人だから、牢屋へ最初に放り込まれてしまうだろう」という趣旨で法令を皮肉っていただけらしい。

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2011年10/5 10/7 10月