天明
1781_01歳
1782_02
1783_03
1784_04
1785_05
1786_06
1787_07
1788_08
寛政
1789_09
1790_10
1791_11
1792_12
1793_13
1794_14
1795_15
1796_16
1797_17
1798_18
1799_19
1800_20
享和
1801_21
1802_22
1803_23
文化
1804_24
1805_25
1806_26
1807_27
1808_28
1809_29
1810_30
1811_31
1812_32
1813_33
1814_34
1815_35
1816_36
1817_37
文政  
1818_38 仕置人として裏稼業開始                        非主水
1819_39 オランダ商館から表彰される(『旋風編』)              『助け人』
1820_40 秀と再会(『裏か表か』)。書庫番に異動(『仕事人2007』)  
1821_41 自身番勤務(『仕事人2009』)
1822_42
1823_43
1824_44
1825_45
1826_46
1827_47
1828_48 風呂屋で十手を盗まれる(『春雨じゃ、悪人退治』)
1829_49 高橋景保の獄死を見届ける(『春雨じゃ、悪人退治』)
1830(文政→天保)

ここでは主水の裏稼業のスタートを1818年と假定した。『必殺仕事人2009公式ガイドブック』で『必殺仕置人』の時代設定が文政時代となっている。主水は仕置人→仕留人→仕置屋→仕業人→仕置人(新)→商売人→仕事人というプロセスで裏稼業を繰り返していったが、仕留人は幕末に限られるので、文政と天保ではいずれも仕置人→仕置屋→仕業人→仕置人→商売人→仕事人というプロセスだったはずだ。文政元年は1818年だから、文政の主水が仕置人になったのは1818年かそれよりあと。ところが主水が仕置人から仕事人になったあと、『仕事人V旋風編』でオランダ商館から表彰されたのが1819年の初め(確か1月16日)。そうなると、文政の主水の裏稼業で仕置人から商売人までの時期は西暦1818年の1年間にほぼ収まることになる。もっとも仕置人と仕事人が同時進行していた可能性もある。それは天保において目立ってくる。

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2009年7/17