山田太郎年齢変遷――『大甲子園』3基準中心

長嶋茂雄が1958年の春に現役をスタートさせたとき、当時、4歳くらい(誕生日は5月5日なので3歳か4歳)の藤村甲子園が長嶋に「お兄ちゃんをきりきりまいさしたるねん」と予言。

 

 

山田太郎は10歳くらいのとき、バスの轉落事故に遭う。太郎はバスの中で、当時、赤ん坊だったサチ子を両腕で抱きしめ、身体でガードして守った。
中学時代、小林投手の目をスパイクしてしまい、野球を封印して、鷹丘中学に轉校。
山田は初め、岩鬼、木下らとともに柔道をやっていたが、小林が目の手術を受けたあと、山田も野球部に移籍して殿馬らを加えて野球を再開。
小林の東郷学園中学と戦って敗れる。

 

 

 

アニメの『ドカベン』では王が715号の本塁打を打ったとき、山田、岩鬼らは鷹丘中学3年。

 

 

 

山田、岩鬼、殿馬(元鷹丘中学)、里中(元東郷学園)が明訓高校に入学。
このとき、長嶋茂雄は74年の引退直前で、徳川監督が明訓の島本投手に「土井垣相手にビビッていて、長嶋や王を相手にしたとき、どうする」と言ったとき、その投手は「そのときは長嶋さんは引退していますよ」とコメント。

 

 

 

初期『ドカベン』は70年代の作品であった。

 

 

 

山田たちが1年のとき、甲子園での明訓×いわき東の対戦が雨で1日延期になったとき、明訓ナインとともに関西の宿舎にいたサチ子は、関東の自宅の祖父(じっちゃん)にてがみを出し、試合を観にくるよう、頼んだ。
山田の先輩・山岡は「てがみが着くころには試合は終わっている」と判断し、宿舎ロビーの固定電話で山田の祖父に連絡。
今なら携帯メールで瞬時に連絡できる。

 

 

 

また、対白新戦で微笑三太郎が塀ぎわで捕った打球がワンバウンドだったかダイレクトキャッチだったかが問題になり、駆けつけた塁審が日射病でダウン。試合は一時、中断。客席にいたファンがカメラで撮影したが、家で現像しないといけなかった。これもデヂタルカメラのなかった時代の話である。

 

 

 

山田たちが高校2年夏の甲子園で弁慶高校に敗れた直後、甲子園大会も終わらぬうちに土井垣は大沢監督の日本ハムに入り、犬飼小次郎は南海ホークスに入った。
土井垣が初打席でホームランを打ったとき、それを報道する新聞には、過去の初打席本塁打の打者の記録があり、そこには1979年のデータまであった。

 

 

 

『大甲子園』で山田たちが高3の夏、甲子園に出場したとき、室戸学習塾の面々が殿馬のリズムを狂わせるために高知民謡らしき歌のほか、流行歌である「艶姿ナミダ娘」「瞳はダイアモンド」を同時に歌った。「艶姿~」と「瞳は~」はどちらも83年の曲である。
また、明訓×青田戦で殿馬は「秘打・夏の扉松田聖子」を披露。「夏の扉」は81年の曲。また、岩鬼は昭和60年(西暦1985年)当時の野球選手のまねをしていた。

 

 

 

1976年生まれの城島健司は2007年、水島新司画業50周年(本当は50年目)のとき、『少年チャンピオン』に「自分は山田たちと同世代」というコメントを寄せていた。
松井秀喜と田中将大も『少年チャンピオン』にコメントを送り、それぞれ、『ドカベン』の読者だったことを表明している。

 

 

 

94年秋のドラフトのとき、明訓校校舎内にあった春と夏の2つの優勝旗は「平成六年」、つまり94年のものだった。山田たちは70年代、80年代だけでなく、90年代にも春、夏連続優勝したらしい。
このとき、まず、王ダイエーと長嶋巨人(第2期)が岩鬼を指名。その他の球団は山田を指名したが、東京メッツはドラフト会議に参加していなかった。
里中は千葉ロッテに、殿馬はオリックスに入り、当時、イチロー在籍で、イチローが殿馬をオリックスに推薦した。通天閣の坂田は近鉄に、白新の不知火は日本ハムに入って明訓の元監督・土井垣とバッテリーを組んだ。

 

 

 

95年春のオープン戦で山田は少なくとも5本の本塁打。
開幕で不知火はノーヒットノーラン。岩鬼は初球本塁打。山田は代打で三振。

 

 

 

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