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1970年(5)71年72年I72年II~73年I73年II74年(1)75年(1)
「ガッツ10番」73年ドラフト「ガッツ10番」における時間の停滞と逆行現象I、II、74年(1)

「ガッツ10番」における時間の停滞と逆行現象II
 1974年の秋に日下部はメッツの入団を決めた。
 そうなると、話の流れでは日下部が大学4年でメッツに入り、そこにはメッツ二軍で4年間鍛えた富樫がいたことになっているが、実際、その「4年間」は73年秋から74年秋までのたった1年間になる。竜宮城と逆の現象である。

 

 

 また、年が明け、冬が終わって春になりかけるあたり、日下部が紅白戦に登板。春本番になって富樫が見た5月のカレンダーには「遠征日」と書かれ、普通に考えると1975年(昭和50年)の春のはず。富樫は5月5日・日曜、6日・月曜、7日・火曜に注目。おそらく、北陸3連戦の日程であろう。
 しかし、これは1年前の74年5月のカレンダーである可能性がある。

 

 

 

1974年5月7日が火曜日だったことの記録
└→1974年と1975年の5月7日
www.cty-net.ne.jp/~mikitake/diary/diary.cgi?year=1974&mon=5&day=13
http+://homepage2.nifty.com/freak-oka/purofeel1.htm
www.juno.dti.ne.jp/~toyster/pic05/ryo51.htm

 

 

 

 5月のメッツ北陸遠征は、第1戦が金沢で岩田清志が田淵に決勝スリーランを浴びたようで、第2戦の富山で救援・岩田鉄五郎が池田(元阪神・池田純一か)に逆轉2塁打を食らい、2連敗。
 5月7日の新潟第一球場で、富樫は先發で完封勝利。メッツの勝利打点は1回裏、丘のホームラン。
 阪神は1番・藤田平、2番・野田、3番・遠井、4番・田淵という布陣。9回の表に阪神の藤田がヒット、野田の犠打で2塁に進み、遠井が打席に入り、次が田淵というとき、なぜか、岩田鉄五郎は「藤田平3の2、田淵も3の2」、「おまえが打たれた五本のヒットのうち、四本を打ったふたりが、3番、4番とつづく」、「がんばれ富樫」と心中で言っていた。岩田鉄五郎は遠井を藤田と間違えたようである。

 

 

 

 ここで阪神の監督は絵から見て金田正泰であった。金田正泰は阪神の監督だったのは73年と74年。75年からは吉田義男が監督を勤めた。すると、『野球狂の歌』の「ガッツ10番」では昭和49年(1974年)の秋から半年たつと、1974年の春に逆戻りしたことになる。

 

 

 

 この時期、金田正泰監督と江夏、田淵のいた阪神、そして与那嶺監督と星野仙一のいた中日がライバル球団として多く描かれている。

 

 

 

『ドカベン』で山田太郎が高1夏の甲子園大会に出たのは1974年の大会だったが、それが終わって秋季大会を目前にしたとき、山田太郎の台詞で野村克也プロ22年目となっており、ここで時代設定が1975年に移っている。