私みずからであること

それのみ絶対である

私みずからより大きい必要もない

私みずからである時のみ神をかんずる

 

【八木重吉 「貧しき信徒」より】

 

 

私の「師」のような存在の詩です。

 

 

「私みずから」である、ということは、どのようなことでしょうか。

 

私は、基礎練習(ハノンとかね)を毎日数十分、やっています。

その数十分が終わったときに、「爽快だ」と思えるときは、うまく基礎練習ができた日です。

 

基礎練習は、ある程度は自分にノルマを課さなくては続けられないという部分もありますが(時間がなかったり、疲れていたり、気分がのらない日もありますから)、

とにかく始めてみるということが重要です。決まった分量(多ければいいというわけではない)を、できれば毎日。

そして、弾き終わって「疲れがとれた」とか「元気になった」ような爽快感があるときは、良い練習ができたときです。

 

 

では、どうしたら、爽快感がうまれるのでしょう。

 

ひとつは、心地よいリズムを指先から感じられた時です。

もう少し詳しく言えば、鍵盤を弾くことで指先に感じた楽器や音の衝撃や振動を、うまく身体全体に分散できている時です。

 

心地よい振動は、からだと心を活性化させます。

私の場合は、良い練習ができた日は、お料理しているときにも「コン、コン!」と、まないたに包丁が当たる音が冴えたりします。

歩きやすくなったり、周囲の音がよくきこえるようになったりします。

 

そういう日は「もっと練習したいな。」と、思えるのです。

 

 

 

世の中には、たくさんのメソッドがあふれています。

色々な奏法に興味をもって、実践してみることは、すばらしいし、必要なこととおもいます。

 

でも、メソッド自体を鵜呑みにして「従って」はいけません。

 

やさしいひとや、まじめで向上心のあるひとほど、自分の状態を無視して、がんばってしまう傾向にあります。

表向きは、充実して活躍しているようにみえても、心もからだも疲れてボロボロ・・・

もはや、自分が何をどのように感じているのかさえ、わからなくなってしまうひとも多くいます。

 

「私みずから」の意味は、いろいろな事や新しいことにチャレンジすることだけではなくて、

それを実行したときに、どのように感じているか、どのように変化したか、を観察することに尽きるとおもいます。

 

さあ、今日も弾こう。