…豊臣政権の「五大老」の一人が 「【61】徳川家康」であった。
が、関ケ原の戦いで 反対勢力の石田三成らに勝利すると、 大坂城の秀頼とは別に、 関東の「公儀(江戸幕府)」の建設を進めていく。
征夷大将軍になったのも、 将来成人して関白になる 可能性を秘めた秀頼に対抗して故と考えられる。
それ故、 秀吉が大名屋敷を集中させていた伏見を、 これまで通り「武家国家の首都」 として存続させる事は重要で、 伏見を拠点とした上で、 上洛の折の施設として二条城を新設した。
この事は征夷大将軍の宣下の地が 伏見城である事からも分る。
2代秀忠、3代家光いずれも 伏見で将軍宣下を受けた。
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