EXPO2025 大阪・関西万博訪問記 その298〜9月5日編⑥隠れた過去の万博キャラを発見! | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。


10月13日(月)に閉幕した「EXPO2025 大阪・関西万博」。通算42回目となった9月5日(金)の訪問記をお送りしています。




ギャラリーEASTを後に、再び大屋根リングを抜けその内側へ。水辺のウォータープラザにやって来ました。ここは記念撮影のポイントです。



この前はよく通るのですが、はじめて気づいたことがありました。それがこちら。これまで、日本で開催された万博の年と、イメージがロゴマークになっているというものでした。



1970(昭和45)年は「太陽の塔」、「日本万国博覧会(大阪万博)」。押しも押されぬ大阪のシンボルです。出典①。




1985(昭和60)年は「コスモ星丸」、「国際科学技術博覧会(科学万博、つくば万博)」。茨城県筑波丘陵での開催でした。出典②。




1990(平成2)年は「花ずきんちゃん」、「国際花と緑の博覧会(花の万博、大阪花博)」。わたしが万博好きになったきっかけの花博。チューリップの妖精です。ブログ主所蔵。




そして、ひとつ前の万博は2005(平成17)年「モリゾー(とキッコロ)」、「2005年日本国際博覧会(愛知万博、愛・地球博)」。愛知県東部丘陵で開催。出典③。

懐かしいものがたくさんです。


ところで、床面のアートにはこれもありました。1975(昭和50)年とあります。


波をイメージしたようなマークです。1975年には「沖縄海洋博」が開催されたのでした。


海洋博は、沖縄本島の北中部にある本部町(もとぶちょう)で開催。海岸沿いに長細く会場は設けられていました。


ここからは、手元の公式ガイドブックからさまざま拾ってみることにいたします。



先ほども触れましたが、今般に至るまで開催された過去の万博会場とはレイアウトは異なり、海べりを活かした高低差のある割り合い狭隘な場所に、点在するようにパビリオンや展示館などがあったことがわかります。


博覧会のテーマは「海ーその望ましい未来」。
会期は、1975年7月20日から翌1976年1月18日まで。つまり二年に渡って開催されたという、現時点では日本唯一の会期の万博でした。温暖な沖縄で開催されたゆえに出来たことだったのでしょう。


そして、シンボルマークとマスコットマーク。先ほどのロゴマークは、これやったんですね。



今般の万博では大屋根リングがそのシンボルになっていますが、海洋博では「アクアポリス」という、これがシンボルでした。

海に浮かぶ巨大な要塞を思わせるようですが、海上での未来都市をイメージしてつくられたものだといいます。入ってみたかった!



会場は幅2kmにも及んだため、移動のため、当時開発が進んでいた新交通システムが試験を兼ねて導入されていました。ゴムタイヤを使用した、小柄なキャビン。かわいらしい車両です。


この種の新交通システムが実用化されたのは、海洋博から6年後の1981(昭和56)年2月に開業したポートライナー(神戸新交通)がはじめてのことでした。

それを考えると、実際に乗客を乗せての営業を行ったのは画期的なことだったとわかります。



ちなみに、長年鉄道のなかった沖縄にモノレール方式の「ゆいレール」が開業したのは、さらに後年の2003(平成15)年のことでした。那覇空港にて。


ガイドブックに戻ります。海洋博のパビリオンもさまざまなものがあったようですが、いずれも博覧会のテーマである「海」を主題にしていました。


個人的に気になったのは「三菱海洋未来館」。

今般の万博、さらにひとつ前の万博「愛知万博(愛・地球博)」でもパビリオンを展開していましたが、三菱は万博への出展には積極的なようです。次の万博、横浜での「GREEN×EXPO 2027」でも出展予定だといいます。


パビリオン内は、三人掛けのムービングシートと呼ばれる座席に座って、次々と替わる展示を観覧するというもの。そういえば、この大阪・関西万博では、ライド系のパビリオンはひとつもないことに気づきました。




いまなお解き明かされていないことの多い深海を探検。これは体験してみたかったですね。


海洋博は、3年前のアメリカからの日本復帰を期して開催された側面もありました。これを契機に、沖縄本島のインフラ整備は一気に進んだといいます。

ところで、いまでは気軽に行ける沖縄ですが、巻末の交通案内を観ていますと、当時はそうではなかったようです。


離島の沖縄ですから、各地からの沖縄入りは飛行機が主。オフィシャルエアラインは日本航空が務めていました。これは、国内で開催された万博いずれでもそうなのでした。


本土から那覇までの航空便。本数の少なさに驚くのですが、運賃の高さにも目が行きます。東京羽田からは片道29,400円、往復53,000円。大阪伊丹からでも片道23,000円、往復42,000円。

当時、国鉄の初乗りは30円。東海道新幹線で東京〜新大阪間は「ひかり号」で片道5,010円(現在は「のぞみ号」で片道14,920円)。
飛行機はまさに、高嶺の花だったのですね。


これまで開催された万博の、その時代時代に思いを馳せるのもまた一興やなあと感じるとともに、万博の歴史は連綿と継承されているのだなとも感じた次第でした。


次回に続きます。

今日はこんなところです。


(出典①「フリー百科事典Wikipedia#太陽の塔」)

(出典②「Instagram#つくばエキスポセンター」)

(出典③「フリー百科事典Wikipedia#2005年日本国際博覧会」)