生前の信長に一番近いといわれてる肖像画



織田信長が本能寺の変で最期に言った言葉
「是非にあらず」(仕方がない)


これは信長が殺されたのでおそらく後世の人々が創作したものと思われます

ではなぜ後世の人々はそういったのでしょうか  

いろいろ調べた結果信長の非情なまでの殺戮を調べたところ

まさしく因果応報の報いを受けたとしか思えません

我々が教科書で習う歴史とはほとんどが時の権力者によりねつ造されているのです

歴史から学ぶことは自分がしたことは良いことも悪いことも全部

己が身に降りかかってくるということです


信長弾劾裁判

被告人は織田信長

日本史上最大の殺戮者


己の理想世界実現には他者など構っておれぬ

中島道子・作家


罪状一 非戦闘員の大量虐殺

●越前一向一揆の惨殺
 
天正元年(一五七三)越前守護朝倉義景を討った信長は、本願寺と連携する一向一揆勢を討伐するため、三たび越前に侵攻した。天正三年五月である。
 敦賀から船、陸路は木の芽峠を越えて二手に分かれて猛進してきた信長軍が真っ先に血祭りにあげたのは府中(武生市)であった。
この疾さと苛烈さに一揆軍は敗走し、寺の多くが焼き尽くされた。このときの様を信長は書状をもって「府中で千五百ほど首を斬り、近辺でも二千あまり斬った。町は死骸で足の踏み場もない」と家臣村井貞勝に送っている。
 当時二千人ほどの町で、二千ほどの死体が転がったということはまさに皆殺しである。さらにどのようにして殺したかという証拠が厳然として残っている。今立郡味真野村小丸城跡から出土した瓦に刻まれた農民門徒の恐るべき証言だ。
「この書きもの後世にごらんじられて、御物がたりあるべく候。しかれば五月二十四日いき(一揆)起り、そのまま前田又左衛門(府中城主前田利家)いき千人ばかり生けどりさせられ候なり。ご成敗ははりつけ・かまいられ(釜煮、殺し)・あぶられ(火刑)候なり。かくのごとくに一筆書きとどめ候」

右のしだいでわかるように、前田利家が信長の命により、どのようにして殺したかということを、なまなましく伝えている。
そのほか三十人縄、五十縄と称して、坊主たちの手に穴をあけて縄を通し、数珠つなぎにして地上を引きずりなぶり殺したという。ほか生け捕られて信長の本陣に送られた者は一万二千百余。これを小姓に命じて首を斬らせるのに刀が油にまみれ、手が上がらなくなった。そこで首の代わりに鼻と耳を削いだという。その数あわせて三万とも四万ともいわれている。

●伊勢長島一向一揆の焼き殺し

天正二年七月、信長は伊勢長島に拠る一向一揆軍を三月かけて討伐した。
一揆勢ははじめ五ヵ所の砦にたてこもったが、信長はまず大鳥居・篠橋の二つの砦を大鉄砲で崩し戦意を削いだ。そして風雨を衝いて脱出する男女千人をただちに斬首。
 次に篠崎の砦の一揆勢を寝返らせて長島城へと追い込んだ。するとただでさえ兵糧の尽きている城内はたちまちパニック・飢餓状態に陥った。
 たまりかねた一揆勢は信長に詫びを入れて城を明け渡し、小船に分乗して川へ漕ぎ出せば、両岸から鉄砲の雨が降り、川面はみるみる赤くなり、どうやら岸に泳ぎついた者も、その場ですぐに首を斬られた。
残るは中江・屋長島の砦で、男女あわせて二万人が籠城している所へ柵をめぐらし、四方から乾草を積んで火を放った。こうして最後の砦は二万人を焼き殺して落城させた


●比叡山焼き討ちと僧侶の皆殺し

 比叡山延暦寺は天台密教の総本山で、歴代天皇の霊位を祀る王城鎮護の府である。信長がこの叡山焼き討ちを命じたのは元亀二年の九月十二日である。
諸将も驚く中で一人諌言を呈したのは明智光秀だったという。しかし信長は、叡山が浅井・朝倉に加担したこと、それに仏道の作法を怠り、淫乱にふけり魚肉を食ろう徒輩ときめつけ、三万の兵力をもって包囲した。
焼き討ちは十二日の早朝に、里坊の集中する坂本から始まった。僧兵たちも防戦したが圧倒的兵力に押し切られ、衆徒や逃げ遅れた僧俗男女が八王子や比叡の山へと駆け上がった。それを追いあげ攻め登り、老若男女の区別なく撫で斬りにした。
その数三千と「言継卿記」や『信長公記』は記している。


罪状二 婦女子 殺戮

●荒木村重一族の虐殺
 
天正七年十二月、摂津伊丹城主荒木村重の城が落城した。このとき村重は西国に遁走したが、村重一族妻子・並びに部将の妻子が引っくくられ、京まで引き廻されたうえ、六条河原で斬首された。恐怖に絶叫する子らと半狂乱になる母、そして河原を染める鮮血に、白昼の地獄絵が展開した、その中にはもちろん村重の若い妻たしがいた。
さらに処刑は尼ヶ崎の七松の浜で、奉公人男女四、五百人が小屋に押し込められ焼き殺された。その人肉を灸る匂いが六甲の山の上までのぼったという。


●妹(お市の方)の子をな・ぷり殺す
 
天正元年八月。近江の雄、浅井長政の小谷城が落城しだ。この長政の妻は、信長の妹お市の方で、すでに三女があり、信長は妹と三女の投降を認めた。
このときお市の方は十歳になる嫡男万福丸を密かに逃がす。ところが信長はこれを探索、つい
関ヶ原で串刺しというやり方で惨殺させた。


●叔母おつやを磔に処す
 天正三年十一月、美濃岩村城の女主といわれたおつやと夫秋山信友が岐阜の長良川畔で逆磔にされた。
 おつやは信長の叔母にあたり、岩村城主遠山景任に嫁したが武田の大将秋山信友に攻められ夫は病死、信友と再婚する。
ところが長篠の戦いで武田方が敗れたことから信長は岩村城を攻め、叔母の城を奪ったうえ、降伏した二人を岐阜に護送し信友もろとも極刑に処した。

●朝倉義景の老母と妻子を焼く
 
天正三年八月、越前守護朝倉義景の一乗谷が焼亡し、義景は大野の六坊賢松寺で自刃した。
このとき義景の母高徳院、側室小少将と四歳になる、愛生丸が捕らえられた。そして信長の本陣府中(武生市)に護送され、着衣を剥がれ粗衣を着せられて市中を引き廻されたうえ、今庄町の帰の里へ運行された。そこで待っていたのは刺されて寺に放り込まれ、火で焼かれるというものだった。


●安土城の侍女たちを成敗
 
天正九年四月、信長は琵琶湖に浮かぶ竹生島詣でに出かけた。行程は秀吉の居城長浜から舟で渡ることになっている。
だからとうてい日帰りは難しく、城の侍女たちは信長が長浜に一泊するだろうと思い込み、命の洗濯とばかり城下の桑実寺や薬師寺に遊びに出かけた。
ところが信長は早めに引きあげてきた。そして女たちの留守を知り、遅れて帰ってきた女たちをかたっぱしから切り捨てた。話を聞いて驚いて駆けつけてきた住職も、詫びを入れられずその場でばっさり切られてしまった。
以上をもって信長の、日本流に言うところの武士道から逸脱した非人道的殺戮について論述した。

上申 異人ルイス・フロイスによる

フロイスはポルトガルの宣教師…
来日して布教、戦国期の史料「日本史」を著す…

 日本での布教はなかなか進まずとくに寺院の多い京都での伝道が難しかった。それは京都が天皇と将軍のいる所だということと、仏教諸宗派の本拠で、僧侶の説教がなかなか巧妙だかいだ。
 ところが元亀二年(一五七一)九月、信長がそうした仏教の総本山ともいうべき比叡山を焼き討ちした。人々は恐れ戦いた。しかしそれはキリスト教布教のためのチャンス到来だった。
 とはいっても将軍足利義昭はいぜんとして武田信玄に上洛を促し、叡山再建をもくろんでいた。ところが信玄が倒れ、信長が義昭を追放し、京の寺々を焼き払ったことから布教が軌道に乗るようになった。
 また真宗のメッカ本願寺と連携する越前や伊勢の一向一揆を征伐したことも、布教の世界を広げてくれた。
 そして湖東に壮大な安土城が築城すると、城下に教会が建ち、学林セミナリオ`も建設された。
 ところが一番の理解者であった信長の変容が起こった。信長の傲慢は、自分自身を神だと言い出し、安土の捻見寺に信長を生き神とするボンサンと称する石を置いて拝ませるようになったのだ。
 イエスを信じる私達にとって、それは許し難いことであった。これはまさに悪魔的権力者以外の何ものでもなく、私は信長に失望した。いや、そんなことを言わせる日本にも失望した。


判決 死刑に処す

日時:天正十年六月二日早暁/場所:本能寺/執行人・・明智光秀

 判決は死であった。信長が京の本能寺で茶会を催した翌日の早暁、

即ち天正十年六月二日、死刑執行人明智光秀が踏み込んだ。

 信長はがく然としたが観念した。「是非もない」とつぷやいたことばに、光秀への苛めや、多くの人命を殺したことを認めたのだ。
 
不可能という文字はなかったはずだが…人生にはやはり終わりがあった。それも弾劾という終わりが…

終わりに信長の死をコメントしよう。信長の死は戦か暗殺の刃で倒れるのがふさわしい。その意味で、光秀の襲撃は信長の死を飾った。

二十世紀ではルーマニアのチャウセスクのような哀れな末路もあるのだ。信長とて現代ならそうならないとも限らない。
本能寺に倒れたことは、信長と光秀の名を永遠のものにした。 (了)

 以上の主旨にそって、著者企画・司会による信長弾劾のシンポジウムが来る六月十三日(日)福井市東大味の明智神社奉賛会記念行事で開催される。

テーマ 「信長を転ばそうかい」



現存する光秀公唯一の肖像画