アンドリッチの人と文学
優秀な妻帯を禁じられた元キリスト教徒にひとしく虐げられていたときは
独立しようとまで思わなかったセルビア人も....
そうでないものに支配面されたことが、
結果的に世界大戦の引き金をひく役となってしまった原因なのか。
「ドリナの橋」を読んだ感じではでオーストリアに徴兵されていって、
ここでいろいろと学んで戻ったものが多いことも一因かと。
アンドリッチの人と文学(木村彰一 栗原成郎)
「現代東欧文学全集12 ドリナの橋」 より
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このさながら死んだような村、トラヴニクは、数世紀来、コンスタンチノープルのトルコ皇帝の
権力下にある政治的首府なのだ。
この土地に任命されてくる宰相(ヴエジール)は、同宗者であるはずのボスニアの回教徒を、
残りの少数のカトリック教徒、ギリシア正教徒、ユダヤ教徒と区別なく軽蔑し、
税の取立てにあたっても同様に容赦しない。
民族と信仰を異にする村人は、彼らをひとしく虐げている一つの政治権力下で、
それぞれ信仰する神の名にかけて衝突し合い、
信仰と生活の悲惨さの程度に応じて今日一日を生きたいと願っている。
この村の外の世界ではさまざまな出来事が起こっている。
ドナリ川を距てた隣国のセルビアにおいてさえ、
民族が蜂起して国境を騒がせている。村人はこの外の世界の出来事を知っている。
たとえば、ボナパルトという男のことを知っている。
村の
カトリック教徒はナポレオンの失脚を、
ユダヤ教徒はその勝利を望み、
正教徒はロシアによる調停を望み、
トルコ人はこれらすべての異教徒が狼のように共食いした後に、
聖なるトルコ帝国が再び全世界を支配することを夢みている。
1806年の暮れ、ナポレオンはトルコ皇帝に対し、このトラヴニクに領事館を開く許可を求めた。
イギリスの海上貿易を抑えることを夢みていたナポレオンは、フランスの支配する
ヨーロッパ横断交通路をバルカンに設けたいと考えていた。そのうちの一本は、トラヴニクの
谷間を通るはずになっていた。
1807年2月、フランスの総領事館この地に領事館を開いた。
時を移さず、オーストリアによる巻き返しが行なわれ、その年の秋が終わらぬうちに、
トラヴニクの村はもうひつの総領事を迎えることになったのである。
このように、「ボスニア物語」は、ナポレオン時代における、ボスニアの歴史に材を取った
歴史小説である。
・・・
この橋(ドナリの橋)は1571年にトルコの大宰相ソコル・メフメド・パシャ が
命じて建設させたものである。
この橋の歴史は、オスマン・トルコ帝国の
イエニチェリ 軍団
によるセルビア少年の略奪にはじまる。
・・・
東南欧における被征服地の、とくにキリスト教徒の
移住地域から、5年目ごとに、十歳から十五歳位の
少年のうち、美しく、健康で、頭のよい者を
選び出して、デウシルメ (強制徴収)という形式で
軍団の中に吸収した。
・・・
ドリナの橋の建設者ソコル・メフメド・パシャも
イエニチェリ出身の政治家であった。・・・
その政治的辣腕をもって、長くオスマン史上に
残るものであるが、この老練のソコルも、
ハレム勢力の政治的陰謀にかかって、
1587年刺客の凶刃にたおれた。
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デウシルメは英語では Blood Tax ですか。
少年シナンは「シナン」ではイスタンブールに
いきたかったようなふうに描かれていた。
ソコルが「ハレム勢力の政治的陰謀にかかって
刺客の凶刃にたおれた。」
シーンもくやしそうにあった。
「ドリナの橋 = ソコルル・メフメト・パシャ橋 」で
設計はやはりミマール・スィナン
下のスタリ・モストはその門下生の作
当時、どうやって作ったのですかね。詳細不明とか。
メモ
YouTube動画 シナンとダビンチを比較したもの
Islamic Architecture :Sinan The Architect *VS.* L.Da Vinci
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 イエニチェリ
デヴシルメによらないで入隊した生まれながらにムスリムであるトルコ系の者が増え、
妻帯も普通に行われるようになって軍紀が乱れるようになった。
イェニチェリは各都市においてギルド と結びついて顔役・無頼のような行動をとり、
政治にも介入した。特に首都ではしばしば反乱を起こして宰相を更迭させたり君主を廃位したりした。
また、オーストリア国境での戦争時に国境地帯のセルビア 人居住地域から略奪を行い、
また勝手に住み着いて支配階級として振舞ったりしている。
これによって、セルビア人居住地域がトルコからの独立運動を志すことでセルビア公国の誕生に繋がり、
第一次世界大戦 発生原因となるバルカン半島 の混乱の基礎となる。
(ちなみに、鎮圧活動は同時期のナポレオン・ボナパルト によるエジプト進軍対抗への協力を依頼するため
中止された。)
ユーゴスラヴィア解体とイヴォ・アンドリッチ
ユーゴスラヴィア唯一のノーベル文学賞作家イヴォ・アンドリッチが、現在、
旧ユーゴ諸国で、どのように扱われているか
独立しようとまで思わなかったセルビア人も....
そうでないものに支配面されたことが、
結果的に世界大戦の引き金をひく役となってしまった原因なのか。
「ドリナの橋」を読んだ感じではでオーストリアに徴兵されていって、
ここでいろいろと学んで戻ったものが多いことも一因かと。
アンドリッチの人と文学(木村彰一 栗原成郎)
「現代東欧文学全集12 ドリナの橋」 より
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このさながら死んだような村、トラヴニクは、数世紀来、コンスタンチノープルのトルコ皇帝の
権力下にある政治的首府なのだ。
この土地に任命されてくる宰相(ヴエジール)は、同宗者であるはずのボスニアの回教徒を、
残りの少数のカトリック教徒、ギリシア正教徒、ユダヤ教徒と区別なく軽蔑し、
税の取立てにあたっても同様に容赦しない。
民族と信仰を異にする村人は、彼らをひとしく虐げている一つの政治権力下で、
それぞれ信仰する神の名にかけて衝突し合い、
信仰と生活の悲惨さの程度に応じて今日一日を生きたいと願っている。
この村の外の世界ではさまざまな出来事が起こっている。
ドナリ川を距てた隣国のセルビアにおいてさえ、
民族が蜂起して国境を騒がせている。村人はこの外の世界の出来事を知っている。
たとえば、ボナパルトという男のことを知っている。
村の
カトリック教徒はナポレオンの失脚を、
ユダヤ教徒はその勝利を望み、
正教徒はロシアによる調停を望み、
トルコ人はこれらすべての異教徒が狼のように共食いした後に、
聖なるトルコ帝国が再び全世界を支配することを夢みている。
1806年の暮れ、ナポレオンはトルコ皇帝に対し、このトラヴニクに領事館を開く許可を求めた。
イギリスの海上貿易を抑えることを夢みていたナポレオンは、フランスの支配する
ヨーロッパ横断交通路をバルカンに設けたいと考えていた。そのうちの一本は、トラヴニクの
谷間を通るはずになっていた。
1807年2月、フランスの総領事館この地に領事館を開いた。
時を移さず、オーストリアによる巻き返しが行なわれ、その年の秋が終わらぬうちに、
トラヴニクの村はもうひつの総領事を迎えることになったのである。
このように、「ボスニア物語」は、ナポレオン時代における、ボスニアの歴史に材を取った
歴史小説である。
・・・
この橋(ドナリの橋)は1571年にトルコの大宰相ソコル・メフメド・パシャ が
命じて建設させたものである。
この橋の歴史は、オスマン・トルコ帝国の
イエニチェリ 軍団
によるセルビア少年の略奪にはじまる。
・・・
東南欧における被征服地の、とくにキリスト教徒の
移住地域から、5年目ごとに、十歳から十五歳位の
少年のうち、美しく、健康で、頭のよい者を
選び出して、デウシルメ (強制徴収)という形式で
軍団の中に吸収した。
・・・
ドリナの橋の建設者ソコル・メフメド・パシャも
イエニチェリ出身の政治家であった。・・・
その政治的辣腕をもって、長くオスマン史上に
残るものであるが、この老練のソコルも、
ハレム勢力の政治的陰謀にかかって、
1587年刺客の凶刃にたおれた。
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デウシルメは英語では Blood Tax ですか。少年シナンは「シナン」ではイスタンブールに
いきたかったようなふうに描かれていた。
ソコルが「ハレム勢力の政治的陰謀にかかって
刺客の凶刃にたおれた。」
シーンもくやしそうにあった。
「ドリナの橋 = ソコルル・メフメト・パシャ橋 」で
設計はやはりミマール・スィナン
下のスタリ・モストはその門下生の作
当時、どうやって作ったのですかね。詳細不明とか。
メモ
YouTube動画 シナンとダビンチを比較したもの
Islamic Architecture :Sinan The Architect *VS.* L.Da Vinci
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 イエニチェリ
デヴシルメによらないで入隊した生まれながらにムスリムであるトルコ系の者が増え、
妻帯も普通に行われるようになって軍紀が乱れるようになった。
イェニチェリは各都市においてギルド と結びついて顔役・無頼のような行動をとり、
政治にも介入した。特に首都ではしばしば反乱を起こして宰相を更迭させたり君主を廃位したりした。
また、オーストリア国境での戦争時に国境地帯のセルビア 人居住地域から略奪を行い、
また勝手に住み着いて支配階級として振舞ったりしている。
これによって、セルビア人居住地域がトルコからの独立運動を志すことでセルビア公国の誕生に繋がり、
第一次世界大戦 発生原因となるバルカン半島 の混乱の基礎となる。
(ちなみに、鎮圧活動は同時期のナポレオン・ボナパルト によるエジプト進軍対抗への協力を依頼するため
中止された。)
ユーゴスラヴィア解体とイヴォ・アンドリッチ
ユーゴスラヴィア唯一のノーベル文学賞作家イヴォ・アンドリッチが、現在、
旧ユーゴ諸国で、どのように扱われているか