公現日礼拝
今週の御言葉
ナタナエルは答えた、
「先生、あなたは神の子です。
あなたはイスラエルの王です」。
イエスは・・・また言われた、
「よくよくあなたがたに言っておく。
天が開けて、
神の御使が人の子の上に
上り下りするのを、
あなたがたは見るであろう」。
ヨハネによる福音書1章49,51節
聖書箇所
ヨハネによる福音書1章45~51節
メッセージ題
「あなたについて行きます」
今日の聖書箇所はヨハネの福音書においてイエスさまが初めての弟子を取るという場面が描かれています。一番はじめの弟子たちはバプテスマのヨハネの弟子だった人たちです。一人はこの箇所では誰だか分からない正体不明の人物です。もう一人はアンデレでした。その翌日アンデレの兄弟のシモンが弟子となりました。彼はペテロと呼ばれることになりました。そして次にピリポという男もイエスの弟子となったのです。ここまでの4人はイエスに素直に従ったかのようです。しかしその次の男はそうはいきませんでした。イエスの弟子となったピリポはナタナエルという男と会ってこう言ったのです。
「わたしたちは、モーセが律法の中にしるしており、預言者たちがしるしていた人、ヨセフの子、ナザレのイエスにいま出会った」。(45節)
ピリポは昔から預言されていた救い主にとうとう出会い救われキリストの弟子となりました。これは彼にとって人生最高の喜びだったのです。
日本ナザレン教団の創始者である喜田川広先生はアメリカで救われました。そしてこれほど素晴らしい福音を日本に持って帰れば多くの人々が救われ日本はキリスト教国になると思ったといいます。救われるということは本当にそう思わせられるほどのものなのです。ピリポもそう思ったのでしょう。だったら知人のナタナエルという男も喜んでくれるに違いない。この素晴らしい教えを伝えればナタナエルも救われるかもしれない。ナタナエルにイエスさまを紹介してみることにしたのです。でもそれを聞かされたナタナエルの反応は冷(さ)めたものでした。彼は心の中で明らかに「こいつは一体何を言っているんだ」と思っていました。
「ナザレから、なんのよいものが出ようか」。(46節)
「ナザレ、あんな所から良い者なんか出るか」。ナザレという所は、あまりよく見られていなかった場所だったようです。人から蔑(さげす)まされた目で見られる所でした。だからナタナエルからそんなことを言われたのです。それに加え、主イエス・キリストはどんな場所でお生まれになったのでしょう。それは馬小屋という、この世の中で最も貧しく非衛生的な場所でお生まれになったのです。それも赤ん坊という、この世の中で最も弱い姿でお生まれになったのです。それはこの世の全ての人に仕えるために、生まれた時から一番下、最も貧しい環境、最も弱い姿で生まれられたのです。そこで彼はよく思われていない人たちに囲まれて育ち、大工という職人として生きてきました。そんな場所から神の御子は出て来られたのでした。主イエス・キリストはこの世の中で弱く、見下されていた者たちと共に歩まれたのでした。
キリストはどんな人とも共におられ、どんな人をも愛されるのです。神さまはあなたの創造者、キリストによって父なのです。親は子を愛するものです。神はどんな人でも、あなたをも愛しておられるのです。
ナタナエル自身がナザレに対して偏見を持ってしまうのは理由がありました。彼は非常に律法に熱心なユダヤ教徒、真のイスラエル人でした。どうも彼は学者だったようです。ナタナエルはイエスさまも認めるほど、律法を積極的に学び追求し、心には偽(いつわ)りがないのだというのです。つまり相当熱心なイスラエル人であり、ユダヤ教徒だったということなのです。だから、そうでない人たちを受け入れることができなかったのです。
しかしそんなナタナエルの心の内はどうだったのでしょう?彼自身、熱心に律法を追い求め行動するけど、救われた思いがしなかったのかもしれない?だから余計に頑張ってしまったのかもしれない?それでも満足できない?学べば学ぶほど訳が分からなくなったのかもしれない?恐れや試練の時には自分の学んだことなど役に立たないことを思い知らされたのかもしれない。そして実は真の神について何も分からなかったのかもしれない?
ナタナエルは無理やりピリポによってイエスさまの元へと連れて行かれたのでした。そして彼が連れて来られた時、イエスさまはこう言われたのでした。
「見よ、あの人こそ、ほんとうのイスラエル人である。その心には偽りがない」。(47節)
ナタナエルはイエスさまに自分のことを言い当てられたのです。彼が何を考え、何を求め生きているのか、彼自身の全てが主イエス・キリストにずばり見透(す)かされたのです。その時、ナタナエル自身、今まで味わったことのない驚きを覚えました。どうして自分のことが分かったのだろうか?
「ピリポがあなたを呼ぶ前に、わたしはあなたが、いちじくの木の下にいるのを見た」(48節)とイエスさまは言われました。するとナタナエルは、「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」。(49節)イエスさまは答えて言われました。
「あなたが、いちじくの木の下にいるのを見たと、わたしが言ったので信じるのか。これよりも、もっと大きなことを、あなたは見るであろう」。(50節)「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上(のぼ)り下(くだ)りするのを、あなたがたは見るであろう」。(51節)
ナタナエルはキリストのその姿から神の御姿(みすがた)を見たのです。これは真に神の子であると分かったのです。キリストはその姿から御自分を神であると現されたのです。これはまさしく奇跡なのです。ナタナエルは神が人間となったその最大の奇跡を見たのです。そんな神の奇跡の前では、彼の律法の知識、行いによる救いは無意味だと思い知らされたのでした。彼の今までの人生がぶっ飛んでしまうほどの衝撃でした。そんなものなどどうでもよい、この方に出会えたことが人生最高の喜びなのだ。ナタナエルはどんなに学んでも、訓練してもつかめなかった救いを得たのでした。全てをかなぐり捨て、主イエス・キリストに従ったのです。
自らの罪が示されるというのは、今まで、あんなこんな悪いことをやってきたことを思い知らされるよりも、今まで生きてきて確立させた自分の考え方、生き方をナタナエルのように引っ繰り返されるようなものなのかもしれません。己(おのれ)が持つ知恵や力に対して何を考えていたのか、たとえば「自分はこんな知恵や力を持った優れた人間だ」とか、またどういう動機、理由で持てる力を用いていたことが問われ、実はそれが罪であると思い知らされるものでしょう。また罪によって一体どんなことが自分や周囲の人にもたらされたのか。しかしナタナエルに声をかけた主イエス・キリストは私たちの罪の罰の身代わりとして十字架にかかられ死なれたのです。でも三日目によみがえられ天に昇られたのです。これを信じる者は罪が赦され救われるのです。十字架上でのこの姿を見せてくださったことによって、イエスさまはご自分が天の父なる神さまの御子、子なる人となられた神さまであることを顕(あらわ)されたのです。
ナタナエルのように、どんなに頑張っても自分の知識や力で救われることなど不可能です。真の神の子と出会わなければ救われることなどありません。それは主イエス・キリストがあなたの罪のために十字架にかかり復活されたことを、霊なる神である聖霊によってあなたの心と身体で思い知らされなければならないのです。そんな「天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りする」(51節)ような不思議な姿を見たとき、あなたを罪から救うために御子の命を犠牲としてくださった愛が分かるでしょう。すると罪が赦された喜びに満ち溢れ救われたことが分かるでしょう。そのときナタナエルのように全てを捨ててこの人について行きたいと思わせられるのです。
※3月末までは教会学校と合同の礼拝です。
