考えても答えは出ない | 真実は人を幸福にするか?

真実は人を幸福にするか?

桑田義雄が、うかんだり、もぐったりするブログ


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自らの目をもって、自らの目を見る事は出来ない。

自らの心をもって、自らの心を推し量る事は出来ない。




人は自分の価値観、生き方の是非を、自分自身に問う事があります。
ですが、その問いかけによって、正しい解答を得る事が出来るか?という事です。

仏教には「自力法門」「他力法門」という二つの法門があります。

「自力法門」とは、努力によって、自分の心を分析できる、というものです。
座禅をしたり、学問する事で、自分の心を分析できるというのです。

「他力法門」とは、努力によっては、自分の心は分析できないというものです。
それが、上記の「自らの目をもって、自らの目を見る事は出来ない。自らの心をもって、自らの心を推し量る事は出来ない。」という事です。

いくら、自分の心を分析しようとしても、分析するその目が曇っている、つまり、迷いにおおわれているわけですから、正しく分析できるわけがない、という事です。

うつ病やノイローゼにかかった人が、いくら本を読んで、自分の心を正しく認識しようとしても、それが出来ないのは、認識しようとする目がゆがんでいるからです。

では、カウンセラーのような第三者ならば、正しく分析できるかと言うと、カウンセラーが「正しい目」を持っているわけではない。
人の心というのは、心理学のテキストに書かれているような単純なものではないのです。

カウンセラーもまた、煩悩におおわれ、数々の間違いを犯します。
苦しみの中で、もがきながら生きているのです。


仏教の他力法門とは、自分自身の目をもっても、他者の目をもっても、心を正しく分析することは難しいという立場です。

では、どうすれば、正しく、心をとらえることが出来るか?
それは、「仏」という超越的な存在であると説きます。

この場合の「仏」とは、自分の中に内在する「仏性」ではなく、あくまでも、外界に存在する、自身と相対化させた「仏」です。

「仏」という存在が、自身の外側から働きかける時、雲が晴れるように、心の迷いが消えて行く。
その時に、自然に真理が浮かび上がる、というのが他力法門の理屈です。

「他力法門」と言うと、阿弥陀信仰を思い浮かべるでしょうが、もとは法華経に説かれている思想です。
法華経の方便品には、「南無仏と唱えて手を合わせれば、悟る事が出来る」と説かれています。
この場合の「仏」とは諸仏であり、特定の仏ではありません。
宇宙には、「三世十方の諸仏」と言って、無数の仏があり、どの仏であっても、同様の働きがあるというのが法華経の思想です。
日本神道における、天照大神、八幡神などの神もまた、「三世十方の諸仏」の中の一つです。


苦境におちいった時、考えても考えても答えが出ません。
どつぼにはまったような状態になります。


そんな時は、神社にでも行って、しばらく手を合わせておりますと、すっと見えなかったものが見える事があります。

神仏とは、決して、物理的に幸福をもたらしてくれる存在ではありません。
心の迷いをぬぐいさり、正しい方向性を示してくれる存在なのです。

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