FUJITA'S BAR
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2014-07-29

映画 「GODZILLA」

テーマ:アニメ・特撮
まるで、サムライのようなゴジラでした。


ハリウッド版ゴジラというと、1998年の悪夢が甦りますが…
ローランド・エメリッヒ監督のアレは、ヒドかったですねえ。

ゴジラが、時速480キロのスピードで、忍者みたいに走り回って、
ミサイルをよけながらビュンビュンとジャンプする姿は、
観客たちを、新鮮な驚きと失笑の渦に巻き込みました。

そのイメージは、韓国の怪獣映画「グエムル」に継承されています(笑)


さて、今回のゴジラ。

公開前から、ヘビー級の不安が立ちこめていたんですが、
なかなかどうして、かなりいい感じに仕上がりましたよ☆


映画から感じるのは、「ゴジラ」という作品に対するリスペクト。
特に、1954年版に対しての愛情を、ひしひしと感じました。

渡辺謙の役名が、「芹沢猪四郎」となっているのが笑えます。
これって、芹沢博士と本多猪四郎監督の名前を組み合わせてあるんですね。


渡辺謙の役どころが、いまいちはっきりしなかった印象を受けたのですが、
どうやら、大事なシーンをことごとくカットされたらしく、
オリジナルでは4時間くらいあったのを、無理矢理2時間に短縮しちゃって、
彼がゴジラの何たるかを騙る場面がごっそり削られてしまったとか…

ですので、彼の深い表情から、無理矢理創想像してみましょう(笑)

一体、何をそんなに盛り込んじゃったんでしょうね。



映画の構成としては、前半は静かに進み、中盤から怪獣が登場します。

俺、予備知識なしで行ってびっくりしたんですが、
何と、「敵役の怪獣」が出てくるんですね~

その正体は、劇場でご確認下さい。

デザインは微妙にカッコ悪いけど、動きがなかなかよかった。
ゴジラとのバトルは、結構興奮しますよ☆



本作のゴジラのイメージは、「物静かな侍」だと思います。

ずっと眠っていたところを、チンピラヤクザ怪獣に叩き起こされ、
地球であんまり暴れるもんだから、重い腰を上げて、刀を抜いた…って感じ。

その「堂々たる姿」は、神がかり的なものを漂わせています。

さすがは、「GODZILLA」という名前に「GOD」が入っているだけありますね。

俺的には、「ガッジーラ」と発音されると、「Dr.スランプ」に出てくる
ガッちゃんになっちゃうので、渡辺謙に正しい発音をしてもらえてよかった。

ハリウッド版「北斗の拳」でヒロインを演じた鷲尾いさ子は、
ケンシロウのことを「ケンシーロ」って呼んでたから、謙さんはエラい☆


考えてみれば、渡辺謙は、「ラストサムライ」に出ていたんですよね。

彼の役柄が、すごく神秘的でストイックなイメージだったので、
本作のゴジラと何だか重なるような気がするんです。


伝家の宝刀、「火炎放射」をぶちかます時は、鳥肌立ちました~

やっぱりこれ、立派に「ゴジラ」していると思いますよ。



今回のゴジラの身長は、108メートル。
イデオンよりも3メートル高いくらいですね。

体重は、9万トンだそうな。
最初は50メートルで2万トンだったから、かなりデカくなりましたね。

驚いたのは、今回のゴジラには、「エラ」がついているんだそうです。
それで、水中を優雅に泳ぐことができるんですね。

そして、やたらと首が太い。
これは、かなり殴られ強そうですね。

咆哮を上げる時、首がちゃんと振動しているので、よく見てあげて下さいね。



監督は、イギリス出身のギャレス・エドワーズ。
まだ39歳だそうで、子供の頃からゴジラとスターウォーズのファンだったそうな。

映画を見れば、彼がどれだけ作品を愛しているかがよくわかります。

兄ちゃん、いいもの作ったね☆


ゴジラがちゃんと「ゴジラに見える」ので、この映画、OKでしょう。





本当に力のある者は、普段は物静かな存在である。

必要以上にでしゃばったり、自分をひけらかしたりしない。

しかし、いざ出番が来れば、刀を抜いて立ち向かう。

抜いた刀は最短距離で舞い上がり、美しい弧を描き、敵を一刀両断。

「やるべき事」が済めば、刀は再び鞘におさまり、また静かな眠りにつく。


これが、サムライの戦い方である。


日本を代表する怪獣を、大切にイメージしてくれたエドワーズ監督に感謝です。


…ゴジラこそは、地球最強の怪獣である。

ガオガオガオ~ッ! かかってこいや~!!







【作品データ】

製作総指揮:坂野義光(「ゴジラ対へドラ」監督)他
原作:東宝株式会社 原案:デヴィッド・キャラハム
監督:ギャレス・エドワーズ 製作:トーマス・ダル
脚本:マックス・ボレンスタイン フランク・ダラボン
   ドリュー・ピアース デヴィッド・S・ゴイヤー
VFXスーパーバイザー:ジム・ライジール
音楽:アレクサンドル・デスプラ
出演:アーロン・テイラー・ジョンソン エリザベス・オルセン
   渡辺謙 ブライアン・フランストン ジュリエット・ビノシュ
   デヴィッド・ストラザーン サリー・ホーキンス


 (2014年アメリカ 上映時間:123分)





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2014-07-23

メンタルコラム その14 「微能の人」

テーマ:メンタルコラム
「有能」の対義語は、「無能」です。


自分が「有能」だと思っている人は、意外と「無能」だったりします。

自分が「無能」だと思っている人は、案外「有能」だったりします。


細かく言わせてもらえれば、才能が「皆無」な人はいないと思うのです。

だから、「無能」な人は、実際にはいない。


しかし、みんな「有能」ですか、と言われれば、う~む…となります(笑)



そこで俺は、「有能」でも「無能」でもない、「微能」という言葉を提案します。



「すごく才能がある人」は、いわゆる「天才」かもしれない。

「努力して才能を磨いた人」は、いわゆる「秀才」かもしれない。


普段は目立たないのに、いざという時に「信じられない力」を発揮する人がいる。

「まぐれ」と言い捨てる人もいれば、「本当の底力」だと賞賛する人もいる。



つまり、「評価する側」の「都合」によって、何とでも言えるんですよね(笑)



例えば、「いじめられっ子」の男子がいたとしましょう。

原因は、「暗いから」だったとしましょう。

転校したら、クラスのみんなは、自分よりもずっと暗かった。

その日から、彼は「明るい」ことが評価されて、人気者になりました。


例えば、「ケンカが弱かった」としましょう。

クラス替えをしたら、みんなは自分よりもずっと弱かった。

その日から、彼は「強い」ことが評価されて、人気者になりました。



ここで大切なことは、「明る過ぎない」こと、「強過ぎない」こと。

その度合いが強ければ強いほど、落差が大きくなります。


落差が大きいと、反動も大きいのです。


「自信がない」ところから、急に「自信過剰」に飛躍してしまうのは、危ない。

「自信満々」なところから、急に「自信喪失」に急降下するのは、危ない。



何事も、ほどほどがよろしい。


「極端」から「極端」に行ってしまうのが、一番危ないのです。

その「両極端」なところを行ったり来たりするのが、「躁鬱病」だと思うのです。



落ち込み過ぎず、驕り高ぶらず。


それが、「微能」の力。



振幅が小さければ、小回りも効くし、しなやかな思考もできるというもの。

普通の人は、そんなに大それた発想とか、大きな仕事はできないのだから、

「ちょっとした、小さな才能」があれば充分だと思うんですね。


「大いなる才能」を持った人は、それだけで精一杯。

「微妙な才能」を持った人は、心に少し「余裕」がある。

そこを、お互いに、助け合えばいいんですね。

そこを、お互いに、協力し合えばいいんですね。


俺、難しいことは言っていないですよね…


「才能のある人」は、決して、驕り高ぶらず。

「微妙な才能がある人」は、決して、妬まず。


お互いが、協力し合えば、より強力になっていく。

お互いが、歩み寄れば、よりいい力が生まれていく。



「自分よりもあの人がどうのこうの」とか、

「あいつよりも自分の方がどうのこうの」とか、

下らんことを考える前に、

「力を合わせたら、もっといい事ができるんじゃないか」という発想をして欲しい。


人は、単独でできることは、たかが知れている。

しかし、協力して力を合わせれば、無限のパワーが生まれる。


わかっているはずなのに、何かが「隔てて」しまっている。


その正体って、何だと思いますか?



俺も、ずっとこのことを考えてきて、未だに答えが出せずにいます。


どなたか、いい解答があったら、教えて下さい。



俺もまた、「微能の人」だと思っています。

心を病んでから、ずっと、ずっと、自分は「無能の人」だと思ってきました。

しかしながら、色んなことがあって、少しずつ、少しずつ、少しずつ…


自分は、全くの「無能」ではないのではないか、と思うようになりました。

そう思えるようになった自分の、心の成長ぶりを誇らしく思うとともに、

そう思わせてくれるきっかけを与えてくれた、数々の仲間に感謝しています。



あえて、はっきり言います。

「無能な人」は、この世にいません。

ただ、「無能だと思いこんでいる人」がいるだけです。


いきなり、自分を「有能」だと思う必要はありません。

だから、まずは、「微能の人」だと思う努力をしてみましょう。

「ゼロ以上」なら、それだけで「微」の資格がありますから。



「カッコいい人」ばかりでは、世の中は成り立たない。

「微妙にカッコいい人」も、必要でしょ。



いきなり高いハードルを目指さずに、

「これならイケるかも」と思えるような、小さな目標でいい。


「全くダメ」ではなく、「微妙にダメ」なだけなんです。

だから、「微妙にイケてる」し、「微妙にスゴい」のです。



俺は、全くダメな人間じゃない。

そのことが、最近になって、少しだけ、わかってきました。


これを読んでいるあなたは、もっともっと、すごい才能を持っているかもしれない。

見方を変えて、視線や目線を変えて、自分をよく見て欲しい。



思い込む前に、イメージが固まってしまう前に、

もう一度だけ、自分をしっかり見つめてみましょう。



それはきっと、楽しい作業だと思いますから。


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2014-07-22

映画 「思い出のマーニー」

テーマ:アニメ・特撮
心の闇は、優しい光によって、少しずつほぐれていくのだ。


予告編が素晴らしかったので、絶対見に行こうと思い、昨日見て参りました。

いい話ですね~


米林監督作品は、「借りぐらしのアリエッティ」に続いて2本目ですが、

俺は断然、こちらの方が優れていると思いました。


体と心を病んでいる、中学1年生の少女が主人公。名前は「杏奈」。

療養のために、海辺の村で夏を過ごすことになった彼女は、

そこで、不思議な体験をするのであった…



思春期というのは、自我が形成されていく、特殊な時期。

自意識過剰であったり、周囲の視線が気になったり…

「自分で自分をどう思うか」よりも、

「周りに自分がどう映っているのか」が気になり、

「こうありたい」という「理想」と、

「こんなんでしかない」という「現実」が、激しくぶつかり、

「自分は最低…」と感じてしまう「自己嫌悪」に陥ってしまう…


俺の場合は、そんな感じでしたね。


鏡を見るのが嫌で、写真に写るのが嫌で、

自分の顔や体型、動作や仕草、全ての「出力」に、自分で「ダメ出し」をし、

いつしか、「表情の乏しい、暗い人間」になってしまっていました。



本作の主人公は、まさにそんな「匂い」がします。


俺は男だから、女の子の気持ちはわからないけど、

「苦しんでいる」「自分と激しく葛藤している」のはわかる。


ただ「悩んでいる」というレベルではなく、「限界」が来ているのだ。

その「耐え難い状態」を、必死でこらえているのである。


冒頭のシーンからして、痛々しかった。


これは、「痛みを共有する映画」なのかもしれない。



健全に育って、「まともな大人」になれた人には、わからないかもしれない。

常に「風上」にいて、「弾かれる者」になったことがない人には、

ただひたすら「退屈な話」なのかもしれない。


しかし俺は、こういう題材こそが、現代に必要な物語であると思うんですね。




「孤独な人」は、「孤独」になる「理由」がある。

仕方なく「孤独」になる人もいれば、望んで「孤独」を選ぶ人もいる。


「孤独」は、決して悪いことじゃない。


「孤独」を経験していない人は、単独になると極端に弱くなるもの。

「孤独」に慣れている人は、ひとりでも何とかなる。

「孤独」を楽しむ人は、ひとりでいる方が楽しい。



しかしながら、本作の主人公は、「孤独」になどなりたくなかった。

傷ついて、もがいて、苦しんで、気がついたら「孤独」になっていたのである。

あたたかい言葉も、あふれる愛情も、受け付けることができなかった。


本当は、「孤独」になどなりたくないのに、彼女は「ひとり」なのである。


人は、「どうにもならない状況」になると、それに「適応」しようとするもの。

「反発」すると、色々面倒になって厄介なので、

相手の望む「その場しのぎの言葉」を言って、うまく逃れようとする。

リスクを回避して、うまくスルーすることが、スキルになっていく。


実はそれが、より大きな「ストレス」を生んでいくことになり、

本人はいつしか、得体の知れない「重圧」に苦しむことになってしまう…




「表情」というのは、「情けを表す」と書く。

「感情が表に出る」のは、幸せなことなのである。

感情がうまく出せないばかりに、苦悩している人は多い。

感情と表情のバランスが悪くなると、精神のバランスも崩れてくる…



映画には、「満ち潮」と「引き潮」という状況が出てきます。

これは、「精神的な比喩」としても、絶大な効果があると思います。


人の心は、いつも「同じ」ではない。

「ちょうどいい時」に「ちょうどいい会話」をすることで、

お互いの関係が深まっていくもの。

相手の心が「いっぱいいっぱい」なのか。

相手の心が「渇いている」のか。


それを感じ取る機能が、「感性」にあるんですね。



「閉ざされた心」を開くのは、強い光ではダメな場合がある。

火傷した患部を冷やす時や、凍傷になった患部を温める時にも、

それぞれに合った「適度な温度」というものがある。


優しい光で、ゆっくりと、心をほぐしていくのがいい。

映画に出てくる「月明かり」が、とても印象的ですね。




主人公は、不思議な魅力を持つ女の子に出会います。

友達のいない彼女に取って、その子はまさに「救世主」でした。


彼女は、忘れかけていた「心のぬくもり」を感じて、

今まで抑圧されてきた感情が、一気に噴き出してしまう…


彼女の精神は、「冒険」を始めるんですね。



女の子の名前は、「マーニー」。


色彩鮮やかな情景と、心地よい音楽が、とてもいい空間を構成していきます。


ミステリアスな要素と、超常現象的なサスペンスが融合され、

見る者の心を、ぐいぐいとスクリーンにいざなって行きます。


本気で解こうと思えば、謎解きはたやすいかもしれませんが、

俺はあえて、この映画の前では、思考をわざと鈍らせました。

これは、映画を楽しむためのテクニックの1つです。


あえて、先読みをしない思考モードで鑑賞することで、

目の前で展開していく、美しい表現の数々をしみじみと味わいました。


本作に関しては、「せっかち」にならないように、ご注意ですね(笑)




主人公のキャラが、「暗い」と感じるかもしれませんが、

そのくらいの方が、ちょうどいいのです。

「みんなに愛される女の子キャラ」だったら、「孤独」になるわけないでしょ。

「とっつきにくい女の子」だから、物語が面白くなるんですよ。


たぶん、歴代のジブリヒロインの中では、「手強い女の子」と言えるでしょうな(笑)



以前、ブログ記事にも書きましたが、「ゲド戦記」という映画がありました。

この時は主人公が男の子でしたが、ちゃんと「心の闇」を描こうとしたんですね。

「楽しくなければジブリじゃない!」と信じ込んでいる人たちにとっては、

この映画はたぶん、つまんない内容なのかもしれませんね。

俺は絶賛したんですが、世の中の評価はイマイチだったみたいです…


だから、本作を見た時に、俺は真っ先に「ゲド戦記」を思い出したんです。

「ゲド戦記」は、両巨匠に気を使い過ぎて、力が出し切れなかった部分もありますが…

でも俺は、新しい領域を開拓したいという「意欲」を感じたものです。



「明るくて、前向きで、行動力がある女の子」もいいけど、

俺は個人的に、「ジメジメ悩んでいる女の子」の方が好きなんです。

前者は、誰にでも愛されるけど、後者は、相手を選ぶでしょ。

そこがいいんですね~



「気持ちがいい状態」というのは、決して「きれいな世界」ではない。

「ぎこちない瞬間」「気まずい瞬間」「赤面するような失敗をした瞬間」があって、

それらの「苦い経験」の上に、色んなものを「蓄積」させていって、

試行錯誤を繰り返し、多くのダメ出しを乗り越えて、初めて実現していくもの。



「魔女の宅急便」は、完成度が高い、「女の子の成長物語」でした。

「おもひでぽろぽろ」は、「抑圧された大人の女性が自立していく物語」でした。


本作は、「失ったものを取り戻していく物語」であり、

「壊れた世界を修復していく物語」でもあります。


絡まった糸を、少しずつほどいていくように、

沈みきった心を、ゆっくりと引き上げていくように、

映画は、繊細な演出で、丁寧に描いていきます。



たぶん、「好き嫌い」が分かれる映画でしょう。

「こんな暗い女の子、嫌だ」と感じる人も、

心の中で、「自分にも、こういう部分があったかも…」と感じているかもしれない。



「感情移入」というのは、「好きなタイプだから」とは限らないんです。

「こいつ嫌だな…」と思っても、それだからこそ「気になる」場合もあるでしょ。


杏奈は、色んな意味で、「魅力的なヒロイン」なんですね。



この映画は、一緒に見に行く相手を、よく選んで下さい。

じっくり見たい人は、ひとりで行くことをオススメします。


デートでこの映画を見て、会話が盛り上がったら、そのカップルはうまくいくでしょう。

友達と一緒にこの映画を見て、会話が盛り上がったら、その友情は続くでしょう。


余計な雑音は気にせずに、「自分の感じ方」を大切にして欲しいと思います。



人は、生きている間に、色んな人と出会い、そして、別れていく。

人を嫌いになることも多いけど、たまらなく人を好きになることもある。

それは、こうしようと思ってできることじゃなく、心の作用なのだ。


気がついたら、人を好きになっていた。

気がついたら、仲良しになっていた。

気がついたら、相手が怒っていた。

気がついたら、相手が泣いていた…


その人のことが「好き」だから、全身全霊で、理解してあげたいと思う。

その人のことが「嫌い」だから、全身全霊で、遠ざけたいと思う。


でも、なかなかうまくいかないんですね。



この映画は、「心の勉強」になります。

以前に見た「西の魔女が死んだ」という映画に似ています。

以前に見た「カラフル」にも似ています。

でも、違う。


この映画には、この映画だからこその「面白さ」があります。


ぜひ、2人の少女と一緒に、「心の冒険」を楽しんで下さい。








【作品データ】

監督:米林宏昌 原作:ジョーン・G・ロビンソン
脚本:丹羽圭子 安藤雅司 米林宏昌
作画監督:安藤雅司 美術監督:種田陽平
音楽:村松崇継 主題歌:プリシラ・アーン
声の出演:高月彩良 有村架純 松嶋菜々子 寺島進 根岸季衣
     森山良子 吉行和子 黒木瞳 杉咲花 十一、他


 (2014年東宝 上映時間:104分)


☆エンドロール終了後の、素敵なイラストをお見逃しなく。
☆パンフレットに掲載されている三浦しをんさんのコメントが素晴らしいので、
 購入された方は、ぜひお読み下さい。
☆この映画を見た後に食べたくなるものは、トマトサラダとハムエッグですね☆






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2014-07-20

おやじの背中 「ウェディング・マッチ」

テーマ:TV
久々に、熱いドラマを見ました。


いいですね~ この2人。

役所広司が親父で、満島ひかりが娘。

このドラマ、1話完結で、全10話だそうで、

今回はボクシングが題材ってことで、気になって見てみました。


いやあ、2人の演技が熱い熱い。

役所広司は、「渇き。」の役柄そのまんまみたいなキャラで、笑えました。

ひかりちゃんは、「川の底からこんにちは」の役柄の延長って感じで…


この2人の、激しい火花バチバチの演技激突が、実に熱くて面白い。

ぐいぐいと、画面に吸い込まれて行くような感覚を覚えました。


CMで時たま中断するのが、実にもったいない。



ひかりちゃんは、ボクシングのフォームがさまになっていますね。

何だか、「ラブファイト」の北野きいちゃんよりもカッコよかったように思います。

「ミリオンダラー・ベイビー」のヒラリー・スワンクといい勝負かも。


この親子は、わけあって、父子家庭のようです。

2人の、どつきあい漫才のような激しいやり取りで、少しずつ輪郭が見えていくんですね。



ひかりちゃんの「堂々とした潔い演技」は、実に素晴らしい。

「渇き。」の橋本愛ちゃんとも、「私の男」の二階堂ふみちゃんとも、

他のどんな女優さんよりも卓越した「凄み」というものがある。


役所広司の演技は、「渇き。」の時よりも、ほんのりやわらかさを感じました。

やんちゃな部分は、彼の「男としての魅力」でもあるんでしょう。



「父親と娘」という関係って、何だかとても面白い。

俺にも中3の娘がいますが、将来、こんなやり取りができたらいいなあって思います。


無理に、「いい父親」になろうとは思わないし、まず、なれない。

自分が「よくない父親」であることを自覚して、娘には諦めてもらおうと思っています。


親がダメな分だけ、子供はしっかりしてくるものなのかもしれない。

親が威張ってばかりいて、子供を見下してばかりいると、

子供の心は、どんどん歪んでいってしまう。


甘やかすつもりはないけど、精神的には自由な発想をさせてあげたい。

そして、言いたいことを堂々と言える大人になって欲しい。

それだけは、強く思います。



俺は、自己主張が下手で、言いたいこともろくに言えない子供でした。

だから、「権力者」たちから、いいように振り回されたんだと思います。



ひかりちゃんの、「真っ直ぐな表情」が、とても美しい。

こういう女の子に見つめられたら、嘘は言えなくなるような気がする。


「真っ直ぐに相手を見つめる瞳」は、ちゃんと自分の心と向き合っているし、

相手の心とも、ちゃんと向き合っている証拠なんだと思う。


見ている者を、そういう感覚にさせるのが、役者のすごいところなんですね。



愛する者がいて、愛される者がいる。

教える者がいて、教わる者がいる。


両者のどちらかが、一方的になってしまったら、愛情も教育も成立しない。

「愛」というものは、「循環」させてこそ、「生命力」を持つものだから。



たった1時間のドラマの中に、とてもいいものが込められている。

この1時間を見ただけで、2人の過去と未来が、立体的に見えてくる。


物語が、今も続いているような気分になれるのは、内容が優れている証拠ですね。



俺も娘も、同じジムに通っている身なので、何だかとても微笑ましい気分になりました。

俺は行ったり行かなかったりなので、娘の方が何倍も強くなっています。

それが、父親としては、嬉しかったりするもの。



俺は、役所広司みたいにカッコいい親父にはなれないけど、

背中で語れるような、純朴な存在でありたいと思っています。



最近は、滅多にTVドラマを見なくなったけど、いい作品はちゃんとあるんですね。

この2連休は、劇場に行かなかったので、少し寂しかったのですが、

休みの最後に、いいものを見られてよかったです。



今夜で、ジャックダニエルの瓶が空になりました。

明日から、また仕事をがんばります。



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2014-07-19

メンタルコラム その13 「居場所は自分で作れ」

テーマ:メンタルコラム
ずーっとモヤモヤしていたんですが、やっと少しだけ、スッキリしてきました。


やっぱり、心に毒をため込むのって、よくないですね。

リアルではなかなか話せないことも、文章なら自由に書くことができる。

ブログって、精神的なバランスを調整するのに、いいアイテムだと思います。


アメブロを始めてからもう9年が経過しましたが、

ネット上でも、色んな人との出会いと別れがありました。

熱狂的な読者さんもいたんですが、ほとんど長続きしなかったですね…


俺の記憶では、アメブロだと平均、半年くらいでみんないなくなってしまいます。

俺の文章に嫌気がさしていなくなった人。

俺とケンカになって、いなくなった人。

俺からお願いして、いなくなってもらった人。

他の読者と言い争いになって、消えるようにいなくなった人。

個人的な事情によって、ブログを続けられなくなった人…



俺は、人とのつながりを求めて、ここに来ているのではありません。

もちろん、「いいつながり」があるに越したことはありませんが…


「誰かと会える」から、ブログをやっているんじゃないことは、読めばわかりますよね。

俺は、「文章が書きたい」から、ここにいるんです。


色んな人に嫌がらせを受けても、露骨に否定されても、

病気のことで差別を受けても、極悪人扱いされても、やめませんでした。


(さすがに、うつ病を発症した時は、もう終わりにしようかと考えましたが)




俺にとってここは、大切な「居場所」なんです。


誰もが、心地いい「居場所」を求めて、彷徨っています。

「安心できる場所」

「力を抜いて、リラックスできる場所」

「楽しいと感じることができる場所」

「好きなことを思う存分することができる場所」

「ありのままの自分でいられる場所」


そういう「居場所」がある人は、幸せだと思います。



では、「居場所」を獲得するために、必要な要素は何でしょう。


それにはまず、「自分にそこが合っているのかどうか」が第一歩です。

俺のブログには、映画が好きな人もいれば、そんなに好きじゃない人もいます。

俺の文章に魅力を感じて来てくれる人もいれば、嫌いだから来る人もいます。


最初は、そんなに好きだと思わないのに、何度も来ているうちに、

いつしか、映画が好きになっていく人もいるんです。


ブログを始めた当初は、劇場映画の記事にこだわって書いていたので、

読者のほとんどが、男性でした。

しかし、今ではご承知の通り、色んなジャンルの記事を書いているので、

少しずつ、女性読者も獲得しつつあります。


俺のブログって、新作記事を書こうが書くまいが、アクセス数はあまり変わらないんです。

今の記事よりも、過去の記事の方が読まれているみたいですね。

TVでロードショー番組があると、翌日は、そのタイトルの映画記事も読まれているみたい。

いすれにせよ、映画に関心を持ってくれる人が増えてくれれば、俺は嬉しいのです。



俺は、映画の仕事をしたかったけど、できなかった男です。

だけど、映画産業にこうして間接的に貢献できれば、本望なんです。


俺のブログを読んで、劇場に足を運んでくれる人がいる。

のあのあシアターに足を運んでくれて、俺の映画話に付き合ってくれる仲間たちがいる。

好きなことを続けていると、いいことがあるもんですね。



つまり、「居場所」というのは、最終的には「自分で作る」ものだと思うんです。

何もないところに作るのは無理だとしても、何か「素材」を見つけて、

そこを、「居心地のいい場所」にしていく作業が楽しいんですね。


さっきの記事の話題に戻りますが、

「もらうこと」ばかり考えている人は、「創造性」が乏しいものなんです。

「与えられるもの」に「文句」ばかり言って、「協調性」がない。

だから、「気に食わないこと」があると、さっさといなくなってしまう。


雰囲気だけでここに来た人は、ほぼ100%いなくなって行きましたね…

俺の人徳が足りないからこうなったとよく言われましたが、それだけじゃないと思う。

人の「出会い」と「別れ」は、どちらかが「100%悪い」ということはありませんから。


俺を罵って、俺を踏み台にして、次の「新しい出会い」につばがれば、それもOK。

俺の悪口を言うことで意気投合して、読者同士で親友になれれば、それもまたOK。

結果的に「いいきっかけ」を提供したことになれば、俺のブログにも存在意義はあるから。



「ある場所」を見つけ、そこで誰かと出会い、いい関係を築いていく。

つまり、最終的には、自分がそこの「一部」になっていくんですね。

それができれば、「自分」は、そこに「必要な存在」になる。

逆に言えば、「自分」がいるからこそ、その「居場所」は「機能」するんです。


いささか、自惚れた表現になってしまいましたが、そういう要素が大事なんですね。

誰かとぶつかっても、摩擦が起きても、そこを「よりよくするため」だと思えば、

結果的には、いいものが残るんじゃないかって、俺は思うんです。



俺が、飲み屋に通う理由も、そういうところにあります。


ご承知の通り、俺は金持ちではないので、そんなにちょくちょくは行けません。

でも、いざとなったら「行く場所がある」というのは、精神的にいいものなんです。


「行きつけのお店」というのは、簡単にゲットできるものではありません。

お店のボスと親しくなり、お店で働く従業員にも受け入れられてこそ、

そこでの自分なりの「ポジション」を獲得することができるんですね。


「もらう」ことだけを考えている「欲張り」な人間は、自然に淘汰されていくものです。


俺は、その店の「お客」として、気持ちよく飲みたい。

お店の側も、「お客としての俺」に、気持ちよく飲んでもらいたい。

そういう「いい関係」を築いていくことが、実に楽しい作業なんですね。



俺が24歳でこの街に住むようになってから、もう23年が経ちました。

すでに、人生の半分近くを、ここで過ごしていることになるんですね。


数えたら、スナック4軒、カフェ1軒、焼き鳥屋1軒、居酒屋2軒の行きつけがありました。

知らないうちに、「銀の匙」でいうところの「八軒くん」になっていました(笑)



ここで、ちょっとまとめてみましょう。


①まずは、「居場所」になる「候補」を「見つける」こと。

②その場所に「ふさわしい自分」になれる要素があるかを考える。

③自分の「できること」で、その場所を「よりよくしていく」ことに協力する。


この3つのステップをクリアすれば、だんだんと「居心地のいい場所」になっていきます。



「場所」というのは、「人が集まる空間」なのだから、「生き物」なんです。

だから、「楽しい時」もあれば、「苦痛を感じる時」もあると思います。

しかし、その「場所を愛する心」があれば、そこにいられるんです。

今日感じた「苦汁」は、次に来た時には「甘美」になるかもしれない。


そこにいる「自分」が「成長」することで、「場所」も「成熟」していくんですね。



まずは、「見つける」

次に、「気づく」

そして、「築いていく」


これが、健全な人間関係の基本だと思うんですね。



どちらが一方だけが苦痛を味わう関係は、何かが間違っている。

「強者」と「弱者」というだけの関係は、すぐに崩壊してしまう。


それぞれが「自分の役割」を「楽しく」こなしてこそ、よくなっていくもの。

それが、47年悩んで生き抜いてきた俺という人間の、生きるスタイルなんです。




ブログに来てくれる人。

一緒に楽しく飲める人。

映画の話を、熱く聞いてくれる人。

カラオケで熱唱して盛り上がる人。

そして、一緒に映画館に行ってくれる人。


みんな、大切な俺の仲間であり、俺の心を構築してくれる宝物なんです。



仲間の数だけ、「居場所」がある。

出会った心の数だけ、「冒険」がある。


「支えられる喜び」は、「支える喜び」となり、

いつしか「支えあう喜び」に変わっていく。



そういう空間が、俺の考える「居場所」です。


今宵は、どの「居場所」で過ごそうかな。



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2014-07-19

メンタルコラム その12 「すぐに言い返す人」

テーマ:メンタルコラム
世の中には、色んな人がいます。


その中で、俺が一番苦手とする人は、「思いつくままにどんどんものを言う」人。

リアルでもネットでも、こういう人はウジャウジャいます。


彼らは、『…思ったことを言っただけ。』と言います。

自分の言葉で相手が喜ぼうが傷つこうが、どうでもいいのかもしれません。

ただ、思ったことを「すぐに」言ってしまわないと「気がすまない」のかも。


だから、自分が言ったことや、自分がしたことをすぐに忘れてしまうんですね。

その反面、自分が悪く言われると、過剰に反応して、攻撃的になっちゃう。

「厚顔無恥」とは、まさにこのことですな。


こういう人は、「権利」(もらえるもの)に対しては、とことん要求し、

「義務」(やらないといけないもの)に対しては、極力搾る。

それが「人情」だと言えば、それまでですが、

何だかそれって、すごく「寂しい」感じがするんですね。


いわゆる「言ったもん勝ち」という発想も、これに当たると思います。

彼らの心の中に常にあるのは、「損か得か」という2種類だけ。


「お得」だとすんなりGOサインを出し、「損する」と思えばブレーキをかける。

それってたぶん、幼い頃から染み付いた習慣なのかもしれませんね。



俺は基本的に、「何か」を得るためには、「対価」を払わなければならないと思っています。


こういうことを言うと「誤解」されるかもしれませんが、

「優れた製品を買う時は、正規の金額を払うのが理想」

これは、もの作りを職業とする人なら、わかる感覚だと思います。


俺は貧乏人なので、安いものしか買えないという「事情」があります。

でも、「いい仕事をした人」には、「敬意を払いたい」と思うのです。


「安くて当たり前」「サービスされるのが常識」と思い込んでしまうと、

それが「不充分」だと感じた時に、「怒り」を覚えるようになるんですね。


レストランでウエイターに高圧的な態度を取る人や、

スナックでわがままばかり言う人を見ていると、悲しい気分になります。


「自分は、優遇されて当たり前」

「自分の話を聞いてくれて当たり前」

「自分のことを気にかけてくれて当たり前」

「自分は愛されて当たり前」


そういう「スパイラル思考」に陥った人の脳は、発達しなくなっていきます。

ある程度しか思考力を使わないから、ワンパターンな行動になっていきます。


彼らの脳がフル回転するのは、「相手を言い負かそうとする時」だけ。

そうしないと、自分のアイデンティティが崩壊してしまうからです。


ものをよく考えない人は、やたらに人に質問してきます。

『…○○するためにはどうすればいいの?』

『…何がそんなに面白いの?』

『…もしかして怒ってる?』

『…この映画って、感動するの?』


そんなこと、テメエで考えろ的なことまで、いちいち人に聞きます。

そして、自分の求めている答えと違うと、文句を言うのです。

『…どうすればいいの?』と聞いておきながら、言われたことに対して、

『…それは違うと思うなあ。』なんて偉そうに言い返すから、相手を怒らせてしまう。

『…あんたに聞けばマシな答えが出るかと思ったら、がっかり。』なんて言うんです。


こんな自由奔放なウスラバカが、そこらじゅうにいるんですよね。



『…バカって言う方がバカ。』と言う人は、その時点で自分もそう言ってますよね。

TVやネットで聞いたことをそのまま使う人は、自分の愚を増幅させるだけです。


『…これを言えば、みんなの注目を集めて人気者になれる。』

そんな「魔法の言葉」は存在しません。


「言葉」は、発する側の「心が反映」される媒体だからです。


もちろん、「直感」で言ったことが、「いい効果」をもたらす場合もあります。

しかし、何でもかんでも「思いつくまま」に発言したら、恐ろしいことになるんです。


それは、「つい手が出てしまう」と言い訳をする暴力男とおんなじ。

相手に重症を負わせても、『…この手が悪いんだ。』と言い訳するかもしれません。


「相手を大切にすること」にブレーキをかけてばかりいて、

「自分が快楽になること」にはノーブレーキ。

こういう「習慣」が身に付いてしまっている人には、「自己反省」がない。


悲しいことに、自分が一番愛している人に対しても、それは例外ではないんです。

「性格の悪い人」が、急に「性格のいい人」になることは、かなり難しい。

『…こんなに愛しているのに、どうしてわかってくれないの?』と憤る人は、

自分の姿が、相手の目にどう映っているのか、もう一度考えてみて欲しいです。





「人柄」って、「自分より力の弱い者」に対しては、露骨に出てしまうもの。


本来「愛するべき者」に対しては、感情の発動回路が違うんですよね。

それは、「より多く愛情を注ぐことができるように」連結のパイプが太いのです。

それだけに、心が暴走してしまうと、過剰な攻撃である「虐待」が生まれやすい…

一昔前に流行った「ハト型暴力」という言葉と、根っこは同じような気がします。



人は皆、多かれ少なかれ「怒り」を抱えているもの。

それが、「自分発」なのか、「人から受けたもの」であるのか、よく考えて欲しい。


『…自分はこんなにがんばっているのに、どうしてこんな目に遭うんだろう。』

他者からの「理不尽な仕打ち」もあるでしょう。

自分が知らないうちに招きよせた「災い」もあるでしょう。


「何か」をしてしまった「報い」を、今受けているのかもしれない。

「もらう」ことばかりし過ぎて、心の負債総額が膨らんでしまったのかもしれない。

いつも自分は「被害者」であり、「弱い者」であろうとする。


本当に「弱い者」は、人を「攻撃」したりしない。


好きな時に人を「攻撃」して、「弱者面」をする人は、卑怯者である。

何かあると、『…TVの真似をしただけ。悪気なんてない。』と言い放つ。

攻撃するのが大好きな割りには、食べるために動物を殺すのを「残酷」と言う。


「熊が撃ち殺された」というニュースを聞き、熊に同情する。

『…もっと他に方法はなかったんでしょうか…』と言う。

この人は、自分の家族が目の前で殺されたら、同じことを言うだろうか。



俺の仕事内容を聞いたある女性が、『…動物に囲まれて幸せな仕事ですね。』

と言った数分後に、『…残酷ですねえ~ 私にはできないわ~』と言いました。

そこまで言うなら、あなたは生で豚肉を食べるんですか、と俺は問いたい。


勤務し始めた当初は、俺も、色んなことを考えました。

だけど、この仕事は、世の中に必要な仕事だと思ったんです。

日本中に、豚肉を食べる人がいなくなったら、廃業するかもしれない。

でもやっぱり、俺、豚肉っておいしいと思うんです。

豚肉をおいしく食べたいし、お客様においしく提供したいから、

心を込めて、愛情を込めて、おいしく育てようとがんばっているのです。


それを、「残酷」という言葉で平然と片付けてしまう神経の方が、俺には理解できません。

彼女の言い分としては、「魚屋はまとも」で「豚肉業者は残酷」なんだそうです。

『…だって、血が出るから痛そうじゃん。』


俺としてはむしろ、魚がかわいそうになってしまう会話でした…

感覚って、人それぞれなんですね。



「思ったことを、堂々と言う」

「感じたことを、ありのままに伝える」

こういう話を、子供の頃に何度も聞いたような気もしますが、

やっぱり、「ありのまま過ぎる」のも、どうしたものかと俺は思います。


刺身は、新鮮なうちが美味しい。

料理は、手をかけたものが美味しい。

大切なのは、「愛情がこもっているかどうか」だと思います。


いくら新鮮がいいとはいえ、さばいた切り身を客に投げつける人はいませんよね。

お皿に丁寧に「盛り付ける」ことによって、おいしさを際立たせる工夫も必要なんです。


言葉も、「丁寧に吟味したもの」は、美しいのです。

文章が下手でも、字が汚いラブレターでも、人の心を打つのです。


言葉は、「気持ちを正しく伝えるため」に存在します。


そのために、頭脳をフル回転させて、感性を磨くのです。


会話は、決して「やっつけ仕事」ではありません。

毎日の積み重ねがあり、一瞬一瞬の蓄積があってこそ、「生きた会話」になっていくのです。



苦悩して、心を砕いた結果、生まれた言葉ほど、美しいもの。

そういう気持ちもまた、言葉に宿るものなんですね。



反射的に、「すぐに言い返してしまう」ことを、ほんの数秒、辛抱してみましょう。

「いつの間にか、相手が黙り込んでしまう」と嘆く人は、特に要注意。

相手が黙ってしまうのには、ちゃんと「原因」があるものです。


目を凝らして、耳を澄まして、感性を研ぎ澄まして、感じて下さい。


あなたにしかできない、「いい伝え方」があると思います。


「言葉遣い」とか、「言葉の乱れ」とか、「正しい日本語」とか、

そういうことは、あまり考えなくてよろしい。


「一番伝えたいこと」を、「一番ふさわしい形」で、伝えてみましょう。

それで誤解されたら、また出直せばいい。

たくさん失敗した俺が言うのもなんですが、チャンスは結構たくさんあるものなんです。


むしろ、「適当にやり過ごそう」として、「決定的なチャンス」を逃す方が残念だから。



人は、「気持ちがちゃんと伝わった時」が、一番幸せだと思うんです。


俺も、嫌なことばかりの人生だけど、そういう「瞬間」があるから、生きて行ける。




その「大切な瞬間」を、「心の宝物」にして、「心の貧しさ」を克服していきたいですね。




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2014-07-19

メンタルコラム その11 「正解」

テーマ:メンタルコラム
心に染み付いたものって、なかなか脱却できないものだと思う。


自分ではそんなつもりはないんだけど、よく「優等生」と言われた。

勉強が得意ではなかったけど、勉強自体は嫌いではなかった。

ポイントを絞ったテスト勉強や、自分なりの勉強方法もそれなりにあった。

だから、テストとか、試験に強かったのかもしれない。


しかしながら、当の真っ只中にいる本人は、極度に緊張していた。

追い立てられるように必死にがんばり、いつも闇の中をもがいていた。


勉強というのは、「評価する誰か」がいて、成り立つものだと思っている。

採点という「権限」を持っている者の気分1つで、どうにでもなってしまう。


だから、常に「採点者」の視線を意識しないと、「不合格」にされちゃう。



「親」は、「子供」に対して、「絶大な権限」を持っている。

気に食わなければ、あっさりと見捨ててしまう。

「教師」は、「教え子」に対して、「絶大な権限」を持っている。

気に食わなければ、あっさりと切り捨ててしまう。

「上司」は、「部下」に対して、「絶大な権限」を持っている。

気に食わなければ、あっさりと廃棄してしまう。


もちろん、そんなに簡単にはできない。

でも、いったんそういう心の回路が起動すると、態度が豹変してしまうのである。


そういう「得体の知れない恐怖」を、ずっと抱えてきたように思う。


それは、少しずつ、ジワジワと、心に浸透して、蓄積されていくものなのである。



幼い頃から、「安心」の中でのびのびと成長できた人には、決してわからない。

周囲から認められて、存在を肯定されて生きて来られた人には、想像できない。


好きで、こうなったんじゃない。

気がついたら、こうなっていたのである。



「失敗」は、「激怒」と「体罰」と「存在の否定」に変わっていく。

「失敗しないこと」が、平穏に生きられる「唯一の手段」だった。



「強者」は「弱者」に対して、常に「全面的な服従」を強いる。

「自分の意見を述べる」ことは、「反逆」を意味する。

「発言権」という「自由」は、、一切与えられなかった。



だから、常に「正解」を探そうとして、必死になってきたのである。




一緒に過ごしていると、「相手」の好む「解答」が、少しずつ見えてくる。

一緒に同じ空間にいると、「相手」が自分に「期待」していることが見えてくる。

一緒に仕事をしていると、「相手」にとっての自分の「役割」が見えてくる。


自分の意思とか、願望とか、感情などは、「無駄な要素」に過ぎない。

全ては、「支配者の気分次第」で、評価などまるで変わってしまうのである。



そういう「正解探し」は、実際、しんどい。

そういう状況に長く置かれれば置かれるほど、心が疲弊してしまう。



今思うと、小学校高学年の段階ですでに、「生きた心」を失いつつあったように思う。

思春期になっても、周囲の友達との間に「違和感」があった。

みんなが同じように持っているものを、自分だけが持っていなかったように感じていた。

そんなみんなに「羨ましさ」を感じることも多かったけれど、

「人は人、自分は自分」と割り切って、自分の境遇を悲観したりはしなかった。



人にはそれぞれ、「担当領域」というものがあると思う。

生き方も生い立ちも境遇も、みんな違うのだし、性格だってバラバラなのだから、

その人に合った「生き方」があっていいと思う。


無理に「普通」に生きなくてもいい。

「変わっている自分」を、卑下したりしなくていい。


俺は、極度の緊張状態に長く置かれていた男なので、

いっぱいいっぱいの人の気持ちが、痛いほどわかる。

表情や仕草に出ない、心の奥底にある悲鳴が、聞こえたりすることがある。


つまり、「気づく力」は、それなりにある。

しかし、それを的確に「行動に移す」ことが、苦手なのである。



「よかれ」と思ってしたことが、余計に「相手」を怒らせる場合がある。

「100回の成功」よりも、「1回の失敗」で、全ては終わりである。


『…全くお前は、ロクなことをしない!』

その「失敗」を、一生言い続けるのが、「支配者」の「最大の武器」である。

当の自分が失敗したことは、全てこちらのせいにされる。

俺を責めることで、自分の過ちを「なかったこと」にしてしまうのである。


俺を責める時の「支配者」は、実に嬉しそうである。

俺を責めることが、まるで「生きがい」のようである。



俺は、「失敗」をすると、「悔しい」と感じる。

だから、同じ「失敗」を繰り返さないように、要領を頭に叩き込む。

しかし、「支配者」は、生身の人間である。

前と同じことを言っても、喜ぶとは限らない。

パターン化した行動は、「バカのひとつ覚え」と批判されてしまう。


つまり、常に「支配者」が「満足」するように、先手を打たねばならない。

俺の頭脳は、そうやっていつもフル回転してきたように思う。



「一方的な関係」は、いずれ破綻する。


「親子」という関係は、「終わりのない拷問」である。

「教育」という関係は、「ダメ出しに怯える空間」である。

「上司と部下」という関係は、「一時的な利害関係」である。


「役に立つ」うちは重宝され、「役に立たなく」なれば、廃棄される運命。

そういう瞬間を、無数に体験してきたし、目の前で見てきた。




「正解」など、どこにも存在しないのかもしれない。

ただ、今はそれが「正しい」こととされているだけなのかもしれない。

次の瞬間には、あっさりと180度変わってしまうことも、よくある。


人間関係にも、同じことが言えると思う。


昨日話した友達と、今目の前にいる友達は、違う心を持っているかもしれない。

「こう言えば喜んだ友達」は、過去のデータに過ぎない。

同じことを言うと、「今日の友達」は怒るかもしれない。

「お約束」や「お決まりのパターン」で続く友情ならば、こんなに苦労はしない。

「いつもと違う」んじゃない。「毎日違う」のである。


そういう気持ちで接すると、友達との「心の交流」が深まっていく。

自分の思い通りにならないから切り捨てていく人には、いい友達がなかなかできない。


人は、「思い通りにならない存在」だからこそ、味わい深いのである。



恋人とうまくいかない人にも、同じようなことが言える。


「こうすれば相手が喜ぶ」と思ってしたことが、裏目に出る。

それは、「相手をパターン化」して考えている自分が生み出した「幻想」である。


自分に置き換えてみればいい。いつも「同じ自分」なのかどうか。

その時によって、気分が「ハイ」な時もあれば、「ロー」の時もある。

「ダウン」している時もあれば、「凪」の時もある。

同じ刺激を受けても、どう反応するかは、その時の「気分」次第。


本来、人には、そういう「自由」があっていいはずなのである。


しかし、「頭のかたい人」には、それが理解できない。

自分が思ったように反応してくれないと、不機嫌になる。

自分が予想した通りに答えてくれないと、恨む。

自分が満足したリアクションをしてくれないと、怒る。



『…せっかくお前のためにしてやったのに、何だその態度は!』


単なる自分の「思い違い」なのに、全部「相手のせい」にしてしまう。

これが、内容もなく「支配者」になりたがる者の「悲しい正体」である。


言われた方は、たまったものではない。

心が健全な人なら、言い合いをしてケンカをしてぶつかって、妥協点を探す。

しかし、心を病んでしまった「優しい人間の心」は、それができないのである。


『…そんなこと、単に○○すればいいじゃん。』

そう簡単に言い放つ人は、人の気持ちをまるで見ていないんだと思う。

それが、その人の持っている「正解」なのだから。

「正解」をぶつけて、相手が認めなければ、「間違っているのは相手」になる。

だから、相手を延々と責め続けることができるのである。


自分の言葉で相手がどんな気持ちになるかなど、全く考えないから、そんなことが言える。

俺は、そういう人が羨ましくてしょうがない、と思うことがある。


しかし、自分は自分。人は人。

俺は、そういう種類の人間になれなかった男なのだから。



「鈍感」であるが故に、人生がうまくいく人がいる。

「敏感」であるが故に、人生を転がり落ちていく人がいる。


だけど、「失った」分だけ、「新たなものを獲得」していることを、忘れてはいけない。

俺は今、そういう風に、自分を「再構築」していっている最中なんです。



人のことは、何とでも言える。

だって、人のことは、「一部分」しか見えないから。


「言葉の重み」は、「その人が生きた重み」である。

「言葉」は、その人「そのもの」を表す、重要な産物なのである。



「軽々しい言葉」を、サラッと言える人。

普段無口で、時々「重い言葉」を吐く人。


「言葉そのもの」と「言い方」で、印象がまるで違うものになる。

それは、「計算」でできることじゃない。

中身のない「ハリボテ」は、すぐに崩壊していくものだから。



「自分の心と向き合う」ことができる人は、

「人の心ともしっかり向き合う」ことができる人である。


自分と向き合えば向き合うほど、自分の嫌な部分がより見えてくる。

心が洗練されてきれいになっていけばいくほど、

どうしても消えない「心のしみ」が気になってくるもの。


それは、自分の力では、どうしようもないものなんだと、最近思うようになった。


「心のしみ」は、「完全に消す」ことはできないけれど、

「限りなく薄めて、目立たなくする」ことはできるんじゃないかって、気づいた。


それをするために有効なのが、「よりよい会話」をすることなんだと思う。



人の心は、いつも「一部分」しか見えない。

人の心を全部知ろうとすることは、不可能である。

自分の心すら見えない者に、相手の心を見ることはできない。

自分の心が「レンズ」や「鏡」となり、それを通して、相手を見るのである。

くもっていたり、歪んでいたりすれば、相手の心がちゃんと見えない。


「自分の感性を磨く」ことができている人は、しっかり見ることができるもの。

ただ、見たくないものまで見えてしまうという「弊害」もあるので、ご注意を。



「いい会話」をしていると、感性が刺激を受けるもの。

俺は、盛り上がる方向に会話するのが好きなので、

初対面の人とでも、飲み屋のカウンターで熱く語る時がある。


相手のことがわからなくても、「いい会話」ができれば、

相手の心の「一部分」が、しっかり見えてくるのである。

相手の顔も名前も、無理に覚えなくていい。

ただ、その人の「雰囲気」と「キャラ」と、「会話の内容」を覚えておけばそれでOK。


縁があれば、またそこで会えたりする。

そういうきっかけで、「友達」になれることも多い。


世間一般では、相手の個人情報をどれだけ知っているかに情熱を注ぐ輩もいるけど、

そういう人との会話は、警察の事情徴収みたいに、質問ばっかり…

聞くことがなくなった時点で、会話が終了。

しかも、大事なことは忘れていることが多くて、同じことを何度も聞いてしまうとか。



俺、そういう細かいことは覚えていられない男なので、最初から聞かない。

ただ、その人がどんな「考え」を持っていて、どんな「心の形」をしていて、

どんな「恋」を経験していて、どんな「夢」を持っているかは、ちゃんと覚えている。


だから、再会した時に、また会話が盛り上がっていく。




俺はずっと、無意識に「正解」を探してしまう自分が、嫌で嫌でしょうがなかった。

しかし、最近になってようやく、それが決して「マイナスな能力」ではなく、

使い方によっては、「よりよい会話」をするための「優れた能力」になる可能性がある。

そういう風に、少しずつ自分を「肯定」していきたいと思えるようになってきた。



「感じたこと」を「そのまま言う」のは、「愚の骨頂」である。


「感じたこと」を、「自分の感性」に照らし合わせて、

「自分の伝えたいこと」を、「相手に伝わるスタイル」で出力するのがいい。

最初は、「軽いジャブ」で、相手の「固い構え」を崩してから、「技」をかける。

相手の「反応」を確かめながら、徐々に深い心の領域に入って行く。


ここで大切なのは、自分の側から「強引に話をまとめようとしない」こと。

自分はあくまでも、相手が考える材料を提供することに徹して、

結論は、相手に出してもらうという「スタイル」を貫くこと。


これが簡単なようで、すごく難しい。



でも俺、こういう「会話スタイル」が、すごく好きなんだと思う。

少なくとも、脅迫されて「正解」を必死で探す「拷問系の会話」よりは、ずっと楽だから。


やっぱり、お互いにいい感じでリラックスできる状態が、一番いいんだと思う。

そういう「話を聞く体制」を構築していくのが、「よりよい会話」の肝なのである。




自分がずっと短所だと思ってきたことは、もしかして、「優れた能力」なのかもしれない。

そう思うだけで、背負ってきた荷物が、少し軽くなる気がする。


人にとっては「何でもないこと」が、自分にとっては「重要」だったりする。

人にとっては「重要なこと」が、自分にとっては「何でもないこと」だったりする。



自分に対しての「視点」を変えていくのには、勇気がいる。

「既成概念」「固定概念」という「鎧」を外していく行為でもあるから。

眠っていた「本来の精神回路」を「再起動」することは、至難の業である。


だから、ひとりではできないのかもしれない。

信頼できる相手がいてくれてこそ、その「面倒くさい作業」が始められるのかも。


「よりよい会話」は、「凍りついた心」を、

ゆっくりとゆっくりと、少しずつ少しずつ溶かしていく作用もあるように思う。




真っ先に浮かんだ「正解」は、単なる「模範解答」でしかない。

反射的に浮かんだ言葉をどんどん相手にぶつけていくのが「会話」ではない。

自分の中で「いい状態」になるまで「熟成」していくのもまた、いいものである。



心の中で、何かが変わっていくためには、それなりの「時間」が必要なのだから。



俺は、47年生きてきたけど、まだ人生というものが何もわかっていないような気がする。

かといって、今までの「多くの失敗」が、全て無駄だとは思わない。

それぞれの出来事が、きっと、何か「大きな意味」を持つ時が、必ず来る。



桑畑四十郎は、いつも悩んでばっかりの、おっさんである。

時々こうして、心の中を整理しないと、先に進めない男。


今日明日は、連休だけど、疲労が激しいので、地味に大人しく過ごそうと思う。

心がスッキリしてきたら、また映画館に行くつもり。

心が淀んだ状態では、いいものを吸収できないと思うから…



「入力」が必要な時があれば、「出力」が必要な時もある。

少しずつ吐き出して、「余計な荷物」を減らしていきたい。








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2014-07-14

ジャック・ダニエル

テーマ:酒&タバコ
小説「ウイスキー・ボーイ」を読んだら、どうしてもこれが飲みたくなりました。

読み終わった翌日に、早速買ってきて、ロックで初体験♪


うは~ 何だろう、この安心感…

森の中に、埋もれていくような、幻想的な味わいがあります。


テネシー・ウイスキーは、バーボンであってバーボンではないらしい。

樽で熟成する前に、蒸留したばかりの原酒を、サトウカエデの木炭を使ってろ過。

この製法を「チャコール・メローイング」と呼びます。

これにより、バーボンよりもなめらか(メロウ)に仕上がるんだそうです。


つまり、「佐藤楓」さんという女に、メロメロにされたわけですな~(笑)


なるほど、ウイスキーというのは、ごっつい酒というイメージがありましたが、

こういうセクシーなアレンジもあるんですね☆


俺はスコッチばかり飲んでいたので、バーボンはアクティブなイメージがあったんですが、

この酒、バーボンとは違う味わいがありますね。



小説「ウイスキー・ボーイ」では、主人公がこの酒を初めて飲んだ時の感覚を、

こんな表現で文章化しています。


『…女の甘いため息みたいな。やるせない味だった。

 口づけのあと、ルージュの香りがほのかに漂うように、

 おれの心にやさしいキスマークが残った。』


どうですか、この表現~


そこから何年か経ち、彼はバーのカウンターで、この酒に再会します。


『…トウモロコシの甘さとバニラのような香りが口いっぱいに広がり、

 冷えた身体をアルコールが熱く貫いた。

 脳の毛細血管がみるみる開いていく。

 思わず、目をつむる。 青い草の香りがする…』


いいですねえ、大人の感覚ですね☆


小説の主人公は、こう続けます。


『…いいウイスキーは、大人の男に似ている。

 静かに微笑みながら、人の心の機敏をわきまえている。

 タフだけど、やさしい。 寡黙だが、やる時はやる。』



モノクロのシブいラベルに、俺はロマンを感じます。


バーボンの8割は、ケンタッキー生まれだそうです。

法律的には、テネシー・ウイスキーはバーボンに入るらしいけど、

バーボンでありながら、バーボンとは違う個性があるんですね。


そして、ジャック・ダニエルは、テネシー・ウイスキーの代表格。


ウイスキーって、探求していくと面白いですね☆



今夜も、晩酌で、ジャックをロックでいただいています。


大人になって、年を重ねていくと、色んなことがあります。

その「色んなこと」を、やんわりと包んでくれるのが、ウイスキーだと思います。


ウイスキーを飲む度に、俺は、少しずつ、大人の男になっているような気がします。



今宵も、いい感じで酔いました。

読者の皆様、いい夜を。



今日もがんばりました。 おやすみなさい。














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2014-07-13

最近読んだ本

テーマ:
読者の皆様、こんにちは。桑畑でございます。

昨日からようやく、文章熱も上がってまいりまして、
たまりにたまっていた感情を順次放出中です~


ペースは遅いですが、少しずつ読書もしていたので、久しぶりに本の話題を。

今回は、4冊ご紹介します。





「ウイスキー・ボーイ」(吉村喜彦著 PHP文芸文庫)


ウイスキーのことを勉強したくて、手に取りました。
著者は、サントリーに勤務していた人らしく、
業界事情の生々しさを描きながらも、ウイスキーの魅力をきちんと伝えています。

彼の表現力は、天才的ですね☆

味や香りといった「目に見えないもの」を、文章で表現するのは難しい。
しかし、彼の文章力は、実にわかりやすくて心に残るものがあります。

きっと、いい感性をお持ちなんですね。


ウイスキーそのものの魅力はもちろん、
人生のあらゆる出来事を、ウイスキーに例えて表現していく…

「熟成」という言葉の魅力を、改めて考えました。

ウイスキーというお酒は、なかなか手強い。

とっつきのいい、口当たりのいいお酒もいいんですが、
たまには、ガツンとくるような、強烈な刺激もいいものです。


この本に出合えて、自分の、ウイスキーに対する世界が広がったように思います。

「熟成」するためには、「静かに眠る期間」も必要なんですね。


俺も、「熟成」された「味わい深い男」になりたいなあ(笑)





「実相寺昭雄 研究読本」(別冊映画秘宝 洋泉社MOOK)


洋泉社が、次々とオタク本を刊行しています。

1冊の値段が高いので、貧乏人の俺にはなかなか買えないのですが、
実相寺監督に搾った本を目にしては、黙っていられませんな~

本体価格で2000円もするのですが、衝動買いをしちゃった(笑)


内容は、素晴らしいです~

プロのライターが執筆しているから、文章の熱気がハンパじゃありません。
実相寺ファンとしては、必携の1冊ですな。

のあのあシアターでも、彼の作品を2本上映したんですが、
なかなかウケがよくて、これからも順次紹介していくつもりです。


資料としても貴重なので、さっそく本棚に並べました。

実相寺氏は、2006年に他界されました。

彼の、映像に対する情熱と技術は、若い世代に受け継がれていると思います。





「イジ女」(春口裕子著 双葉文庫)


タイトルは、「いじめ」と読みます。
内容は、女性独特のダークな心理を描く、8本の短編集。

いやあ~ 強烈でんなあ~


ドロドロというよりも、モヤモヤした感じが、実に面白い。

悪気もないし、その気もないのに、ダークな方に引き摺られていく女たち…

そこには、無邪気で純粋な動機しかないんですね。


中でも、結婚式に呼ばれた友人たちの裏側を描いた「あんぽんたん」は秀逸でした。

いやあ~ 女ってコワいよ~


登場する女たちの、心の裏側を覗いていると、男なんてただのバカに思えてしまいます。


でもね、男が気づかない、深い領域を感じ取ることができるからこそ、
女って、素敵な存在なんだと思います。

鋭敏なセンサーを持っているから、余計な苦悩も生まれるんでしょうね。


その、「モヤモヤした感情」の矛先は、些細なきっかけで暴走してしまう。

悪気がないだけに、始末が悪いのかもしれませんね。


この小説、女性が読むと、イラッとくるかもしれません。

男性諸君は、女を学ぶ気持ちで、じっくりと読みましょう。


男がウイスキーなら、女はブランデーかな…なんてね(笑)





「キネマ館多情」(睦月影郎著 徳間文庫)


映画館を舞台にしたエロ小説でございます。

著者は、官能小説家だそうで、現在58歳。


舞台は昭和4年。主人公は、映画館で住み込みで働く、18歳の青年。

江戸川乱歩、横溝正史、夢野久作といった作家や、
映画監督になる前の黒澤明も登場します。


童貞である主人公のもとに、4人の女が代わる代わる近づいて来ます。
恥じらいながらも、大胆に、淫らになっていく女たち…

青年は、自称Mのようですが、リードの仕方がうまいのか、次第に主導権を獲得。
映画館の奥の小部屋で繰り広げられる、甘く淫靡なひととき。


しかしまあ、通って来る女が4人もいるのに、よくバッティングしませんな(笑)

ユルい展開なので、わかりやすく、一気に読めます。

俺も、年を食ったら官能小説書いてみようかなあ…なんて思いました。


表紙の絵柄が、何ともいい感じです。

「昭和エロチカ書下し」というサブタイトルもいいですが、
帯に印刷された、「激情しました劇場で」というコピーが笑えます。


やっぱり、エロは、男が生きるための活力ですね☆








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2014-07-13

映画 「トランセンデンス」

テーマ:洋画
機械のような思考をする人には、この映画の面白さが理解できないでしょう。


「transcendence」とは、「超越」という意味だそうです。

俺は一応、工業高校出身で、電子システムの仕事も経験した男なので、
興味深く、この映画を見ることができました。

これ、かなり評判が悪いみたいですね~(笑)


やっぱりねえ、ジョニー・デップ主演だからイカンのでしょう。

俺的には、ジョニーという俳優は、映画がコケても許せるキャラだからいいんだけど、
世のファンたちは、彼のイメージを固定して考えているから、要求が強くなってしまう…

ブラッド・ピットが主演したおかげでコケた「ワールドなんとか」と一緒ですね☆


監督は、ウォーリー・フィスター。

彼は、バットマンシリーズや、「ミニミニ大作戦」で凄腕を振るった撮影監督。
「インセプション」では、念願のオスカーを獲得しました。

クリストファー・ノーランが本作の製作総指揮に参加しているので、
「インセプション」の偉業に対して、胸を貸してあげたのかもしれませんね。

ヤン・デ・ボン監督や、木村大作監督など、カメラマンから監督になった人は多い。

フィスター監督の映像センスは、素晴らしいと思います。

彼には、このSF路線でぜひ、今後も活躍して欲しいなあ。



人工知能という題材は、昔から映画のネタとして存在していました。

機械が、人間のように思考できるかというのは、永遠のテーマでしょう。


確かに、演算能力や情報処理能力は、圧倒的に機械の方が優れています。

しかし、感情や自我というものは、処理がかなり複雑なんでしょうな。


映画では、相手の表情や心拍数、発汗、呼吸の乱れ、血中濃度などから分析します。

だから、機械に『…あなたは怒っていますね』と言われると、イラッときてしまう(笑)


わかりきったことを嫌味ったらしく言われるのって、腹が立つでしょ。

そこで、機械は、「こういうことを言ったら怒った」というデータを記憶して、
次は違うアプローチをするんじゃないかと思うんです。


これって、人間同士での会話でも、よくあることですよね。


論理的思考のタイプの人と、感情表現豊かなタイプの人がカップルになると、
どうしてもうまく噛み合わない場合があると思います。

人間同士なら、そこで失敗する度に、お互い歩み寄って、
よりよい関係を築こうとして、だんだんよくなっていくこともできるんでしょうが、

相手が機械だと、感情の部分は、どうしてもうまくいかない…


映画は、死に掛けた夫をコンピュータにダウンロードして、
システムの中で生かそうとする妻の賢明な姿を描きます。

しかしながら、終始「これでいいんだろうか…」という苦悩が垣間見えます。


レベッカ・ホールの中途半端な演技が、ある意味ちょうどいいような気がしますね(笑)



機械と人間とのコミュニケーションって、コントみたいな要素があるんですよね。

そういう意味では、ジョニーに機械的な演技をさせたのは正解だと思います。

でも、彼に情緒的な演技を求めた人は、がっかりするかもしれません。

だって、まともな彼が登場するのは、冒頭だけですから(涙)




スティーヴン・キング原作の「ペット・セメタリー」は、
死んだペットを生き返らせようとする物語でした。

しかしながら、「生き返らせた存在」というのは、「偽物」なんですよね…

それでも、その「存在」を自分の心で「微調整」して、「本物」だと信じ込む。
その姿が、悲哀と情緒にまみれて、何ともいえない味わいがあるのです。


別の視点で考えれば、「偽物」の方が「本物」より優れているということにしてしまう。

スピルバーグの「AI」や、手塚治虫の「火の鳥 復活編」のロビタ、
藤子不二雄の「ドラえもん」などは、機械ががんばって人間らしくなろうとするお話。

そういう健気な姿勢は、人の心を打つものなんです。

個人的には、映画「ZOO」に登場した「陽だまりの彼女」が大好きです☆



全く異なる存在が、他者のことを思って、一途にがんばる。

ダメ出しされても、嫌われても、真っ直ぐに思い続ける。

そういう「心の要素」って、人間として一番大事だと俺は思うんですね。



計算高くて、利害や損得を常に考えて行動するタイプの人には、理解できない感情。

奪われても、騙されても、人に与えずにいられない人にとっては、大切な感情。


全く違う者同士が、少しずつ、少しずつ歩み寄って、1つになっていく。

その「姿勢」が、素晴らしいのです。



俺は、この映画の「未完成」なところが気に入りました。


よく見ていると、細部で色んなことに気づかされます。

些細なセリフや、ちょっとした仕草や表情…

「機械」の演算能力では拾えない「大切なもの」を、あなたの感性で探して下さい。



この映画の悲劇は、システムの住人になった男が、感情表現に乏しかったということ。

そう思うと、会話だけでなく、生身の肌が触れ合うスキンシップも大事だなあ…って。


自分の言葉が、ちゃんと相手に伝わっているか。

相手の気持ちが、ちゃんと理解できているのか。

ほんの一瞬で、心が行き違うこともあれば、

ほんの一瞬で、心が溶け合うこともある。


その「奇跡」が、「深い愛情」を育み、「優れた感性」を磨いていくんですね。



ほんの上っ面だけを見て、わかったつもりになっていることって、案外多いもの。

そういう意味では、俺自身、色々反省しました。


愛する人を失う時になって、初めてその人の存在の大きさに気づくこともある。

これは、ある意味、「怖い映画」でもあるんですね。


もし、主演がジョニーじゃなくて、もっといかつい俳優だったら、
相当ホラー色が強い映画になったでしょうね。

彼が主演したから、「悪い人じゃないんだ」というイメージになるでしょ。

そこで、この映画は、少しばかり損をしているように思います。


しかし、あえて俺は、そこで「既成概念」を取り払う取っ掛かりにしてみました。


色んなジョニーの演技があっていい。

もっともっと、ワイルドでダークなジョニーを見てみたい。


「リバティーン」よりも、「スウィニートッド」よりも、もっとスゴいキャラ。

彼を思い切り「変身」させてくれるような、凄腕の監督の出現を望みます。



すごい組み合わせのカップルというのは、世の中にたくさんあるもの。

この映画を見た後でも、「サッドティー」の余韻がまだ残っています。

まさに、この夫婦に、見せてあげたいような映画ですね(笑)



やりたいことをやれる人生は、幸福である。

好きな人と寄り添える人生は、幸福である。

その人と、最高のコミュニケーションができた人は、さらに幸福である。


そして、その人の心に記憶され、いつまでも生き続けられる魂は、一番幸福である。



…人間の魂こそが、最高の永久機関なのだから。









【作品データ】

監督:ウォーリー・フィスター 脚本:ジャック・パグレン
撮影:ジェス・ホール 音楽:マイケル・ダナ
出演:ジョニー・デップ レベッカ・ホール ポール・ベタニー
   モーガン・フリーマン キリアン・マーフィー ケイト・マーラ

 (2014年イギリス・中国・アメリカ合作 上映時間:119分)


☆中国が製作に参加しているのに、コンピュータルームが日本語表記だったのが笑えます。
☆ケイト・マーラって、ルーニー・マーラのお姉さんだったんですね~ 初耳。



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