おかげさまで30年間なんとか生き延びることができました。本当にありがとうございます。今日はくだらない自分語りなのでいつもにましてスルー推奨です。Facebookにもポストしないんだからね。
結論としては、自分の人生の経営者は自分しかいないんだから、「あなた」が意思決定しないと生きてる意味無いじゃん。ってことかな。会社や家庭、クラブ、学部、いろんなものの「傘下に所属」するんじゃなくて、「あなた」の一部がそこにあるだけなんだから。主体はあなた自身なんだよ。自分で考えようぜ。そのほうがかっこいいから。
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僕は兵庫県の田舎に生まれ、小中高と公立で育ちました。特にお金持ちではないものの、田舎の長男というかんじで、大切に甘やかされて育ちました。高校の1年生くらいまで、いわゆる勉強のできるタイプでした。塾にも行かず、それでも成績はトップクラスにいました。
高校の時にアルバイトをはじめました。おとなしい内気な少年には似つかないガソリンスタンドのバイトです。校則で禁止されていて、みつかると辞めないといけないので、いえから5駅くらい離れた通勤1時間のバイト先に通いました。
・真面目少年 社会を少しだけ知る
ガソリンスタンドのにーちゃんねーちゃんは、どちらかと言うと僕とは正反対な人達でした。そんな人達に囲まれて、よくも悪くも僕は多少社交的になりました。黒縁メガネをやめてコンタクトにしました。運転免許の練習は、強化クラッチのK'sのシルビアとか、AE86とか。軽自動車で裏六甲を攻めるのに同乗したりとか、仕事帰りに神戸の街までナンパに出かけたりとか(1度たりとも成功せず、ついには呼ばれなくなりました)楽しい日々を過ごしました。
そのガソリンスタンドの人に誘ってもらい、起業をめざしたり色々なビジネスを一緒に始めたりしました。18,19歳の頃かな。自己啓発書を読みあさり、プレジデント誌を年間購読契約し、なかなかうまく行きませんでしたが、たくさん失敗してバイトで稼いだお金も失って、人生で早めにやっといた方がいい失敗をたくさん経験できたように思います。
ただ僕はまだ人間ができていなかったので、この時一緒にやってた人にあまりお礼も言わずに義理も通さずに最後「俺天職見つけたわ。こっちいくわ」とさっそうとお別れしてしまったのは心残りです。
そうそう、今でこそエンジニアの端くれを名乗っていますが、もともとさっさと起業したくて、2年で社会人になれて専門知識も手に入るからってデザインの専門学校にいったんですよね。親は阪大目指して欲しかったみたいですが。親父は中学校の教師で、大量の生徒を何十年相手してるだけあって、反論の余地もないトークで攻めてくるわけですが、最後はゴネて行かせて頂きました。
大学に行っときゃよかったなと思うこともありますが、逆に今の図太さは身につかなかったように思います。
で、デザイナーになろうと思ったら、あまりに給料が安い。マクドのバイトかと。しかも残業代なしで終電まで仕事する日も多いよ?みたいなことを面接で言われ、一瞬で辞退したわけです。結果、最初の仕事は時給1400円につられAp◯leのコールセンターで働きました。小4からLC575を使っていたので、技術的には余り苦労せず、クレーム対応で心を病みながらもハタチそこそこで40万近い給料を手にしていました。
結婚・転職 エンジニアの道へ
その頃嫁さんと出会ってるんですが、結婚を意識すると、手に職をつけにゃアカンということで、今の前職のWEB屋さんに未経験で飛び込んだのです。ピーク時40万の給料が試用期間で14万。たらずは嫁さんに食わしてもらいました。仕事も散々で、Javaなんてわからないけど、特に何も教えられず現場に突っ込まれ、Strutsに悪戦苦闘する日々。ベテランの派遣さんに怒られ、PLには呆れられ、結果デスマーチになりPLが逃げ出すという惨状。
そのせいもあって、未経験1年目で肩書きだけはすごく出世しました。PG→SE→PL。そのケツは全部上司が拭いて回ったんですが、まぁやる気はあるし、権限移譲みたいなキーワードも流行った頃だし、やらせとけみたいになったんだと思います。しばらくするとPHPのプロジェクトも任せてもらえるようになりました。今見たらまだ現役稼働してたすごい。
そこでもたくさん失敗しながら、どんどん大きい案件を任せてもらえるようになり、iPhoneの発売と同時にiPhone専用の子会社ができてそっちデビュー。営業からサーバの構築からプログラム、コーディングまでなんでもやろうとしてました。
東京に転勤し、マネージャーになって、会社の数字を追い出しました。よくわからない売上計画を無理やりでっち上げ、辞めそうな社員を引き止めたり、評価制度を作ったり、振り返ってみると現場をかき回しただけかもしれないんですけど、キャッシュフローが苦しくて分割検収をお願いしたり、入金が1ヶ月遅れることの重さ、一人の人を雇うことのコストの多さみたいなのを学びました。
実は辞める1年くらい前にすごく大きな失敗をやらかしたんですよね。自分のキャパ1人でぎりぎり回せるかどうかという大きい案件が同時に2つ決まっちゃって、両方とも自分でどうにかしようとして炎上しちゃって、名だたる企業のすんごく偉い人から怒られて、1個を上司というか別のマネージャに燃え盛った状態で丸投げしちゃった。外注さんにもたくさん泣いてもらって、なんとかリリースまで出きたんだけど、毎日目にするたぐいの有名どころなのでやっぱり苦い記憶と心のなかでごめんなさいという気持ちが毎日蘇りますね。
小休止でオーストリアに
さらに辞める2年前くらい、嫁さんの音楽留学兼観光で、2ヶ月強オーストリアに住んでました。カンガルーじゃなくヨーロッパの方ね。ほぼ専業主夫をしながら簡単な仕事もらってdreiっていうイーモバみたいなやつでネットつないで仕事したんだけど、海外で長期滞在するっていうのは本当にいい経験になりました。一切英語喋れなくて、ドイツ語はもっと喋れなくて、喋る相手は1歳になったばかりの意思疎通のできない息子だけ、、
それでも現地の低品質な肉と、ぼったくりな醤油で夕食作ったり、税率の関係でコーラよりも安いビールを水代わりに昼間っから飲んだり、毎日市立公園にでかけて最高の気候を楽しんだりという贅沢な日々でした。近隣国も回って、ヨーロッパ人の体臭の臭さとか、やる気のないスーパーの店員だとか、土曜は夕方に締まり日曜は営業しないお国柄とか、文化の違いを肌で感じることができました。「正しい」ことなんて何一つないなという学びは非常に大きかったと思います。
一番ドキドキした転職劇
そんなこんなで、そろそろ関西に帰ってきたくて、もし無理なら海外で子育てしたいなと思って、GREE, DeNA, CA, あと大阪の会社さん何社さんかを候補に転職活動しました。G社D社さんは、それぞれOpenFeint/ngmoco勤務を希望しましたが、そういうのは入社後って言われました。
D社G社には1社、CAにも1社転職エージェントさんが間を取り持ってたんですが、それぞれの最終面接のあと、条件交渉で泣きそうになりました。現状の金額の1.6倍くらいでハッタリかけながらも、+10%くらいで落ち着けばいいかと思ってたら、両方のエージェントから
「川畑さん、○○円はいけるって言ってます。いくら提示すれば相手方断ってくれますか?」
みたいなことを言われるわけです。最初は、すごい!相見積もりだ!金額上がっていく!!とも思ったのですが、余り釣り上がっても結果的に求められる成果のレベルも上がっていくので逆に怖くなりました。
そういうこともあって、途中で奥さんに相談し、金額の多少じゃなく自分がワクワクしそうな所で働こうということでCAに決めました。そして迎えた入社式の翌日、前職がGREEに買収され、元同僚は全員六本木行きに。最後の年はマネージャから降ろさせてもらったので買収話は執行役員までで止められており、まさに寝耳に水でした。
普通はこういうストーリーのあと、偉そうなことをどや顔で書くのですが、あまりに冗長で呑んだくれた上司が突然自分語りはじめるウザさがあるので、言いたいことだけ冒頭に書きました。僕の人生失敗だらけなので、30代はその失敗を誰かに還元できるようにして行きたいです。おやすみなさい。