最近気づいたんですが


「人に好かれる」

ということに

向いてない気がするんです


人に好かれる人であり続ける

って

ものすごい努力が必要な気がする




最近

娘の主治医

娘の音楽の担当さん

母のケアマネさん

私の主治医


他にも

作業所の所長さん

とか

ヘルパーさん

とか


色々な方と

色々話してきて

皆、真剣に

私を心配してくれる

皆、真摯に

私の話を聞いてくれる




私は、

自分が好かれてるのか

嫌われてるのか

わからない


そのどちらでも

あるのかもしれない



行きつけのコンビニの店長さんとも

すごく仲が良くて

夕方毎日のように

レジで顔を合わせるたび

冗談を言って笑わせてくれたり



4〜5日顔を出さなかったら

マジで心配してくれたり




心配されるって

嬉しい反面

自分の未熟さが

ダダ漏れっていうか



例えば私が

誰かを好き

と思う時

恋愛の好き

とかのことでなく

人として

存在が愛しい

というか

敬愛する

というか


何かを私にしてほしい

とかじゃなく

その人の仕事との向き合い方だったり

人への心遣いだったり

感性だったり


心惹かれる



私が未熟な分

私は他人の素晴らしさに

敏感なのかもしれない



そしてその感動を

抑えられなくて

すぐ口に出してしまう


「感じる」

と同時に

口から出てしまう


子供だな!




子供達に

「七田チャイルドアカデミー」

という

0才児から右脳教育を施す

お稽古に通っていた


そこのもっとうは

「認めて 褒めて 愛して 育てる」

ということで

私はそれを意識して

子供達のいいところを見つけては

いつも褒めてきた


その習慣が

身についてしまって

私に関わってくれる

「大人」に対しても

そうしてしまう



「大人」

というのは

褒められることを

実は子供以上に

求めているのかもしれない


しかし

誰に褒められるか?

ということが

重要みたいで

私に褒められても

最初は喜んでいても

逆に

馬鹿にされてると

感じ始める人も多い


子供ほど

単純ではない


心が

ミルフィーユみたいに

何層も

様々な感情で

コーティングされてる



誰かを好きになる

というのは

何かしらの心地よさを

与えてくれるから

好きになるわけで

好かれ続ける

ということは

それを与え続けなければならない


それが自分の無理のない

自分の性みたいに

与えられるものなら

継続は困難ではないが

意図的に作り出したものであるなら

疲弊することもある


それでもそれをやり続けていけば

その性質は自分の一部のように

なっていくかもしれないが


一方的に献身的に

与え続ける

ということは

大きな動機づけがなければ

無理が生じる


私は思うわけで


であるならば

私が自分の「性」で

排出するものを

好意的に思ってもらえる人とだけ

関わっていければ

一番「楽」な

わけだけど


「社会」の一員として

それぞれに属する場所の

「こうあるべき」に

皆合わせて生きている


それは「人」を

成長させる機会も多いが

「本音」と「建前」という

日本人特有の

構造を作り出したりもする



私は

「心ありき」

「形」よりも

「意図」を見てしまうから

やはり「日本社会」で浮いてしまう



人に好かれ続ける人は

優しい人なんだと思う


相手が望むものを汲み取り

与え続ける人




相手が何を考え

何を望んでるか

読み取れない私には

いつまでたっても身につかない


自分がされて嬉しいことを

相手にしてあげればいいって

考えも参考にしたことあるけど


私がしてほしいことと

多くの人が望むことって

ちょっと違うみたい



だから

私が人にしてあげられることは

なるべく人に関わらないで

心配かけないことなのかな?



娘だけは

「素」でいられるかな


喧嘩しても

ぶつかっても

お互い鏡みたいに

お互いのアラを指摘しあって

お互いの為に

改善しようとしあえる


三男は

私のこと

アラも含めて

それでも大好きでいてくれるなって

安心できる


夫とも

よくぶつかるけど

でも夫は

私以外を

私程は愛せないだろうなと

思うわけで


私の愛情って

屈指してるようで

ホントはすごく深いんだって

わかっくれる少数の人達に

私の精一杯の愛を

返していきたい


それを理解できるのは

極限られた人なんだけどね



たぶん私に限らず

「変わり者」

って呼ばれてる人の中には

ホントは「深い深い愛」を

持ってる人が

いっぱいいるんじゃないかと

私は思っている



だから私は

多くの人とは

表し方が違う

一見ひねくれた優しさを持つ人が

愛しい



ケアマネさんが言うように

母をあんな生き方しかできない人

って

その生き方を肯定するならば

私もこんな生き方しかできない人って

自分を肯定することが容易になる

そしたら私は

私自身を許せない自分から

解放されるのかな



どうなんでしょうね