「病気の受容なんて、できていない。でも、心と体の痛みを知ったぶん、誰かの力になれるかもしれない」(「患者を生きる」朝日新聞2024.6.6)。

 

 「実際、医療者はえてして疾患や障害に対して否定的なイメージで(治すべきもの、ないほうがよいものとして)とらえがちであり、語りにもそれがにじみでる。そのことが、子どもの疾患や障害を告知された親たちを深く傷つけたり、子どもの存在に対して否定的な感情を植え付けたりすることが少なくない、という問題も指摘されている。」(石橋涼子「子ども・医療・ケア」川本隆史編『ケアの社会倫理学 医療・看護・介護・教育をつなぐ』有斐閣選書2005所収)

 

 この言葉は、障害を抱えた子どもたちが「正常」という言葉で医療者によってその生を否定的に扱われ、「正常」に近づかせることが医療/教育だとされてきた歴史への反省を踏まえてのものなので、その意味では的を射ています。

 でも、疾患や障害について「医療行為をしなくてよい」「(疾患や障害が)あったほうがよい/あってよかった」と言えばよい/考えるべきだということにもなりません。

 

 新たな経験によって自分の人生は深まります。でも、老いも障害も病気も心身の不調も、無ければ無いほうがやっぱり良い。どうせいつかは来るのだから、遅ければ遅いほうが/軽ければ軽いほうが良い。

 人生が、今以上に深まらなくても別に良い。

 病気をすることで、病院という特別な環境で、「貴重な」出会いはきっとたくさんあるけれど、それがなくても良い。元気なままでいても、そこで別の出会いがたくさんあるはずだから。

 

 「障害は、障害です。個性でもないです。歩けない母(車椅子ユーザー)やダウン症の弟は「障害は素晴らしい個性だ」「障害があってよかった」なんてきれいごと、きっと思ってないです。たぶん思えません。それでいらん苦労もしてきたはずだから。本当の障害は、本人にあるのではなく、それが苦痛にならない工夫や成長が追いついていない社会にあります。」(岸田奈美さん/〈2023.10.2「〈社会-家族-個人〉の三つ巴の中に」〉でも書きました。)

 

 「誰かの力になれる」のは、石橋さんと岸田さんの言葉の間に身を置いている限りのことなのではないでしょうか。

 

岸田さんの「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」がNHK ドラマ10で放送されます。7/9(火)スタート予定 毎週火曜 [総合]夜10:00/[BSP4K]午後6:15