小林和之さんの「『おろかもの』の正義論」の中に、「お店でメニューを差し出されその中から選ぶだけなら美味しくなければ文句を言えるが、自分で一から自由に作れば、まずかった時に文句を言えない。」という様な話が出てきます。
ニコニコ動画の選挙演説に対する書き込みなんかを見ていると、日本人は極めて「メニュー選択型」なんだなって実感します。
候補者の登場と共に一番最初に聞くのが「あなたの政策はなんですか?」っていう質問。
ちょうどレストランでどんなご飯があるかとメニューを開くのに似ています。
よく、政治家の言ってる事をしっかり自分から聞きにいって、その中からしっかりと判断しよう!っていう意見を聞きます。
でもこれって、積極的な行為なんでしょうか。
一見すると、政治家の言う政策や理念に耳を傾けて判断するっていうのは、凄い能動的な行為に思えます。
しかし一方で、それは用意された選択肢の中で自分はどれがいいかと考えているにすぎません。
そこに「自分はどう考えるか?」っていう視点はないんですよね。
つまり政治家の話を聞いて判断するっていうのは、自分で「考えて」いるのではなく、「選んで」いるだけなんです。
その点ですごく受動的ともいう事ができると思います。
僕たちは自分で作った料理には多分ほとんど文句を言ったりしません。
それは自分にゼロから完成まで関わったという責任があるから。
一方で、人が作った料理やお店のご飯に対しては、僕たちは自分でつくったそれと比べて、驚くほど不平不満を言います。
多分その理由は高いお金を払っているからとかいう理由だけではないはずです。
(家で少し手の込んだ料理を作ろうとしら、簡単に店の値段くらい超えるから)
ぐるなびとかひどいでしょ?(笑)
きっと、僕たちは選択するって事に対して責任を意識しづらいんだと思います。
選挙についても同じ事が言える気がします。
「原発についてどう考えているか?」とか「オリンピックをどうしたいか?」という質問をする人が多いけれど、まず「自分はどう考えているのか」っていう所がない。
それから、そもそも「それらの争点が与えられた物でしかない」っていう事に気づいていません。
そうした状況で「選ぶ」だけだから、選んだ人に対して責任感なんて湧くはずないんですよね。
しかも「選ぶ」ほうが「考える」よりもずっと楽だから。
良かったら俺の目に狂いはなかったってなるし、悪かったら「裏切られた」って言っとけばいい。
なんかこれってすごくズルい。。。
そこには当事者意識がないから。
そんな当事者意識が欠けた選択で選挙に行くのが、本当に「責任ある大人」なんでしょうか。
僕には無責任にみえて仕方がありません。