どうもこんにちは。影山です。
毎週月曜夜に開催させていただいております【クルミドの夕べ】
1日(月)のテーマは、「Cafeから文化は創られる?」でした。
そのお話をさせていただくにあたって
参考にさせていただいたのが下記の本。
『Cafeから時代は創られる』
飯田美樹 著 (いなほ書房)
もともとこの本も
以前、クルミドの夕べにご参加いただいた方からの
ご紹介でした。
>Yさん、どうもありがとうございました m(_ _)m
ピカソ、モディリアーニ、レーニン、ヘミングウェイ、サルトル・・・
20世紀の初頭、パリのカフェが
いかに「時代を創る」役割を担ったかについて
実証的に語ってくださるこの本
これからのクルミドコーヒーを考える上で
とても示唆に富む内容だったのですが
中でも印象に残ったのが、以下の記述。
「大物たちがカフェに集った」のか
「カフェに集ったグループが次第に大物になっていったのか」という視点の違い
つまり、カフェは結果ではなく、原因だったのではないかと。
違いをつくり出せる人たち
(彼女は本書の中で「天才たち」と呼んでいます)も
そのほとんどは、生まれつきにおいて天才であるわけではなく
葛藤や不安、出会いや努力、仲間からの承認等を通じ
次第にそうなっていく「過程」があるのだと。
そして実は、カフェが
そのような人間成長の舞台として、
うってつけなのではないかと。
そのメカニズムについても
書中、詳しく語られていますし
自分自身も、カフェの役割など
いろいろなこと、考えさせられましたが
長くなるので、それはまた別途 ;-)
なるほどなと思いました。
真っ先に思い出したのが、トキワ荘。
手塚治虫や石ノ森章太郎
赤塚不二夫に藤子不二雄・・・
日本のマンガ史をつくった天才たち。
通常ぼくらは、問いの立て方として
「なぜトキワ荘には、あれだけの天才が集ったのだろう。」と
考えてしまいがちですが、本当はそうではなくて
「トキワ荘で育ったからこそ、人物が大物に育った。」
と考えるべきなのではないか、ということですね。
これも書中で紹介されている表現;
『創造力』の中で、シルバーノ・アリエティは
「天才は規則的に現れず、集団として現れることは
古代から知られている現象である」と述べている。
つまり、そういう装置や、相互作用の機会が
うまく提供された時代や地域においては
天才(違いをつくり出せる人)が連続的に登場してくる
ということなのでしょう。
日本で言えば幕末もそうなのでしょうか。
なぜあの時期日本に、あれだけの傑出した人材が
集中的にこの歴史舞台に登場したのか。
かねてから、そう疑問に思うことがありましたが
それはきっとその時代、
流動化する時代の風に押されるかのように
土佐や長州、薩摩に、そうした人材が育っていくメカニズムが
働いていたからということなのでしょうね。
ひるがえって、クルミドコーヒー。
もちろん、まだまだわれら、
東京ニシコクのしがない一喫茶店。
パリの名カフェや、トキワ荘、松下村塾と
並んで語るのははなはだ僭越なのですが
ただ、カフェという場には
そういう可能性があるという同書のメッセージには
すごくすごーく勇気づけられました。
少なくとも、そういうイメージを持てているか持てていないかで
長い時間が経過したときの結果が全然違ってきそう。
50年後くらいに
なぜ、あの頃ニシコクには
あれだけの人材が結集していたんだろう?
なんて言われるようなこと、あり得ないかな。
と夢想しつつ、今日も明日もがんばります