『今日から君もヒーローだ!!』

5年前交通事故で記憶を失ってしまった敦夫は、いつも画面が乱れている今は無き、昭和の遺産、ブラウン管のテレビから流れるこのフレーズだけを記憶している。

確か子供騙しなお菓子のCMだった、と敦夫はそれを思い出す度に鼻の先を掻きながら思い耽る。

赤、青、黄、黒、桃色のボディースーツに身を包んだ男女5名が、スティック状のチョコ菓子を天に掲げ、そう叫ぶ。

敦夫はその記憶が頭を過る度、懐かしいなどノスタルジックな気持ちになるのではなく、何とも言えない恐怖心に煽られる。

事故に遭ってから5年の間、真っ白になってしまった記憶のキャンバスに、様々な出会いや経験と云う「色」を描き足して来たのだが、恐らくは自分の過去であるこのCMの記憶だけは、どの「色」にも属さず、キャンバスの上を滑る筆の動きを止めてしまうのだ。

5年間で仕上げて来た記憶のキャンバスは、複雑且つ美しく彩られている。

その鮮やかな「色」が知識や思い出の引き出しとなり、敦夫の今を支えているのだ。

しかしこの記憶は思い出す度、折角作り上げて来たこの芸術を「無」に帰す・・・・

敦夫はそんな風に感じていた。

入院中の担当だった看護士とそのまま夫婦となった敦夫は、気が向いた時にこの話を妻にする。

はじめの内はもしかすると解決してくれるかもしれない、と淡い期待を抱いていたが、妻からの返事は「気のせい」だとか「思い込み」だとか、時には「そんな記憶なんてない」と云った、何の生産性もない空返事のみ。

そもそも彼女は、そんなCMなど観たことない、と言うのだ。

そう言われる度、子供時代のCMを覚えていることの方が少ないか、と敦夫は思う。

しかし何故か・・・

しかし何故か、今回は違った。

異様なまでに怒りが込み上げたのだ。

敦夫の目の前には血塗れになり絶命している妻の姿。

握り締めた拳は血に染まっている。

人差し指の付け根と中指の付け根の間には歯が刺さっている。

『撲殺』

敦夫の頭にこの単語が思い浮かんだ瞬間、脳髄の更に向こう側から例のフレーズが溢れ出した。

『今日から君もヒーローだ!!』

『今日から君もヒーローだ!!』

『今日から君もヒーローだ!!』

『今日から君もヒーローだ!!』

『今日から君もヒーローだ!!』

「そうだ!!今日から俺はヒーローだ!!」

敦夫は手から流れ出す血と、妻の死体から溢れ出すどす黒い血を顔に塗りたくり、家の中にある凶器となり得る物をかき集めた。

「今日から俺はヒーロー今日から俺はヒーロー今日から俺はヒーロー今日から俺はヒーロー今日から俺はヒーロー今日から俺はヒーロー今日から俺はヒーロー今日から俺はヒーロー・・・・」

そう呟きながら家を飛び出した敦夫は手当たり次第、視界に入る人間全てに襲いかかり、手に持つ刃物を何度も突き立てる。

返り血を全身に浴びる敦夫は無表情で住宅街を駆けた。

一人。

また一人。

辺りは血の海。

敦夫は全速力で街を駆け抜けた。

悲鳴が讃美歌のように聴こえる。

それは敦夫の頭を冴え渡らせる。

記憶の欠片が暗闇から引き摺り出される。

もうすぐ思い出す、思い出せる、と確信に近い思いが胸に込み上げて来た瞬間、敦夫は足を止めた。

顔を上げると世界は紅く染まっていた。

それは敦夫の軌跡で流されて来た大量の血なのか、それともパトカーが発する赤い光なのか。

敦夫の頭で浮上しかけた光は再び闇へと沈む。

その瞬間、敦夫は咆哮した。

「今日から俺はヒーローだ!!」