「侯爵!大変です」
駆け付けて来た臨波の表情は深刻だった。
「どうした?」
臨波はやや言いにくそうに口籠った。
「今、正門に…蒋という…あの時の役者が」
その名前を令宣はしっかり覚えていた。
四年ほど前、まだ五弟令寛が独身だった頃の事だ。
令寛の芝居道楽はそれ以前からだった。
令寛は蒋月龍という役者が座長を務める一座の公演に通い詰めていた。
それだけならまだしも令寛は月龍の妹にあたる月梅を見初めたのだ。
芝居小屋に通い詰めるうちに懇ろになったらしい。
令宣は眉を顰めた。
外敵を相手に身も神経も擦り減らして帰れば弟が芝居に夢中になって不在がちと来た。
令宣は面白くなかった。
ある夜遅くに戻った令寛を捕まえて令宣は説教した。
「令寛、いい加減に目を覚ませ。私に何かあればお前がこの徐家の家督を継ぐのだぞ。そのお前が毎日のように芝居見物ではいざとなった時にどうするのだ。軟弱なお前に軍隊に入れとまでは言わない…だが規律ある生活をして姿勢を正せ!」
令寛は反抗した。
「四兄上、兄上の仰る事は尤もです…けれど私には私のやりたい事があるんです」
「何だ…言ってみろ」
ぴりぴりとした令宣を前に令寛の言葉は震えた。
「ぎ…戯曲を…そのう…お、お芝居の台本を書いてみたいのです…」
令宣は激怒した。
「馬鹿も休み休み言え!少しは真面目に考えてみたらどうだ!そんな事がお前の為すべき仕事か?」
「そんな事とは何ですか!それは偏見というものです。兄上には分からないのです…この世界の奥深さが!」
言い合いはすれ違うばかり。
二人の話は決裂し…その夜屋敷を飛び出した令寛は暫く帰って来なかった。
大夫人が心配してあちこちの芝居小屋や旅籠を探させた。
月龍の所属する芝居小屋近くの旅館に令寛は居た。
月梅も共に宿泊していた。
臨波が部屋の寝台に拗ねて寝転がる令寛を見つけ、侍衛達が力づくで無理矢理連れて帰った。
「令寛様!」
「月梅!」
連れ出される令寛に月梅が追い縋ったがその手は侍衛達によって引き離された。
その顛末が昨日の事のように思い出された。
令宣は令寛を暫く軟禁状態にした。
大夫人は盛大に溜息を付き怡眞に尋ねた。
「怡眞…令寛をどうしたらいい?」
「お義母様、暫く令寛殿には反省して貰いましょう」
「しかしあの女が居たら令寛はまた出ていってしまわないかい?」
怡眞は真剣な顔でじっと考え込んでいた。
彼女もこの義母の悩みを減らしたかったのだ。
「お義母様…令寛殿も年頃には違いありません。この際家庭を持たせる事を考えては…?」
独り身の令寛がフワフワとして落ち着きがないと義母の悩みも尽きそうもない。
「そうだね、、この先また変な女に引っ掛かるよりは先手を打って祝言を挙げさせれば、令寛も一家の主として責任感を持つようになるかも知れないねえ」
それからの大夫人は八方手を尽くし五男令寛の嫁探しに奔走した。
令寛を何とか落ち着かせたい母親の一念だった。
幸い二男未亡人である怡眞は名門の出身だ。
彼女の尽力のお蔭で定南侯の一人娘県主丹陽の降嫁が決まった。
丹陽はその生い立ちにより多少気の強いところはあるものの立ち居振る舞いには気品があり、容姿も愛らしく申し分のない令嬢だった。
月梅との別れに意気消沈していた令寛だったが離れているうちにやがてほとぼりが冷めたのか、見合いの席に現れた丹陽には一目で惹かれたようだった。
婚儀の段取りも決まり結納も納まったある日の事だった。
大夫人は二人の新居になる屋敷を整えたいと白家職に相談を掛けている最中だった
「大奥様…」
杜乳母が青い顔をして知らせた。
「役者の月龍と妹の月梅が西脇門に来ています…」
「なんだって!?」
「それが…令寛様ではなく大奥様にお会いしたいと…表門に現れないところを見ると内密に話したい事のようです」
「分かった…ここへお通し。令寛に見つからないようにするんだよ」
「承知しました」
一体、何を言いに来たんだ…もう丹陽県主との縁談が進んでいると言うのに…大夫人は嫌な予感がした。
広間に通された蒋兄妹は福寿院の重厚な造りに見惚れてきょときょとと落ち着きのない様子を見せていた。
けれど大夫人が前に立つと芝居掛かった仕草で居住まいを正し、ゴホンと咳払いをした。
「これは大奥様、お初にお目に掛かります。突然参りましてお詫び致します、、私お聞き及びかと存じますが蒋月龍と申す一介の役者で御座います…そして、これが私の妹月梅です」
隣に立った月梅は淑やかな様子で頭を下げた。
月龍も役者らしく面高なご面相であったが、月梅も兄と似通った面差しで鼻筋が細く整った綺麗な顔をしていた。
大夫人は令寛がこの娘を好ましく思ったのも無理はないと胸の裡に覚えた。
大夫人はこの役者兄妹に侮られないよう敢えて杓子定規な冷たい言い方をした。
「そうなの…ところで何のご用でいらしたの?」
月龍はおや?と云う表情を露わにした。
こういうところは流石に役者だ。板についていると大夫人は感じた。
「大奥様…そのような冷たい仰りようでは妹が傷付きます」
「…と云うと?」
「令寛様からお聞き及びでは?」
「どう言う事?」
月龍の態度は更に変化した。
「大奥様、話が長引くかも知れません…そのお椅子に座らせて頂く訳に参りませんか?」
大夫人はピクリとすると無言で椅子を指し示した。
月龍は妹を手招きして二人で座ると本題に入った。
「大奥様、令寛様は私の所属する劇団の長年のご贔屓筋でらっしゃいます。それは大変有り難い事でございます…しかし令寛様は劇団だけではなく、この妹月梅にまで大層お目を掛けて下さるようになりました。兄の私としては大変心配しておりましたが暫く前からとうとう妹を旅籠に招き入れて…」
後は俯いてもごもごと口を濁した。
大夫人は額に青筋を立てた。
言葉を飾る余裕も失っていた。
「どう言う事なの?はっきりお言い」
「言いにくい事ではありますがはっきり申し上げます。つまり令寛様は妹と懇ろになったのです…いくら下賤の者でありましても月梅は未婚の娘です。これは戴けません…」
令寛の不出来は覚悟していたが、いざとなると大夫人は手が震えて来るのを止められなかった。
「…本当なの?」
月龍は真剣な表情で語った。
「妹が手籠めにされたのです…嘘偽りでこのような事を訴えられますか?」
隣から月梅が悲痛な声を出した。
「兄様…手籠めなんて…大奥様、けっしてそうではありません。令寛様と私は…その…愛し合っています」
「愛し合ってるだって?」
大夫人は肘掛けに縋って姿勢を崩した。
「なんてこと…」
大夫人はこの事態に冷や汗が出た。
もう丹陽との婚儀は決まった事だ。
丹陽は県主つまり皇帝の親類だ。
県主を迎える前に外に愛人がいたなど言えるものか。
今更覆す訳にはいかない…。何としてもこの二人を納得させねば…。
大夫人は焦って頭を巡らせた。
が、その前に月龍が口を開いた。
「大奥様…令寛様はご身分がお有りです。妹を正室に迎えてくれなどと不相応な事は申しません。ですがせめて妾にならして頂けるのではありませんか?」
とんでもない…大夫人は慌てた。
普通の家柄なら誤魔化せても相手は定南候だ。
正室が一人娘を産み亡くなった後は独身を貫き堅物で通っている定南候の目は欺けない。
何としてもこの兄妹を令寛から遠ざけなければ…。
決意した大夫人の言葉はきつくなった。
「それも断る」
月龍は身を乗り出した。
「なんですと?妹を妾にもして頂けないと?」
「そうだ…もう世間では広まり掛けているから今更隠しだてはしない。令寛はもうすぐ正室を迎える」
その言葉を聞くと月梅は机の袖に縋って泣き崩れた。
月龍は立ち上がると大夫人に近付いた。
「いいでしょう…大奥様がそこまで話の分からないお方だとは…それならこちらにも考えがあります」
月龍は口元にうっすら笑みさえ浮かべた。
不気味なものの言い様に大夫人は身構えた。
「そのお相手のところへ行ってぶちまけるまでです」
大夫人は怒りで唇が震えた。
「何だって!そんな事許さない!」
「許す許さないではありません…我々は弱い立場です。こちらも妹を守る為に仕方なく対応するしかないのです」
この時大夫人は彼らの罠に掛かったのかも知れないと思い至った。
令寛は嵌められたのだ。
そして今回は最初から令寛の縁談を知っていて乗り込んだのではないか?
とすれば狙いは何なのだ…と。
